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長期間国民的 時代劇六大スターの代表シリーズ題材 大映四大スター崩壊の6ステップ活路







テレビやマスコミがきちんと取り上げることのない真実、日本映画史や芸能史にとって重要な大映4大スター体制をさらに簡単にたどる&別な解釈に迫ることにします。非常に重要な部分だと考えています。簡単に他のテーマにいくらでも移れますが、あえて腰を据えていきます。


「長期間国民的 時代劇六大スターの代表シリーズ題材 大映四大スター崩壊の6ステップ活路」の開城です。



前回記事⇒生き天国生き地獄 大映映画を巡る四大六大花火の交差点と伝説書籍「千恵蔵映画」






ダントツワーストもダントツトップも物凄い現実





時代劇六大スターは日本の映像スターの数多くの概念を形成しました。映画だけではなく全体の映像作品の影響が多数みられ、現在当たり前になった概念や価値感の定着に多数で貢献しています。一つ挙げるといわゆる現代や近代の映画やドラマ、アニメのシリーズ路線はこの6名による影響が大きいと考えられます。平成に作られている映画でいうと映画の『男はつらいよ』シリーズ、『仮面ライダー』シリーズ、『名探偵コナン』シリーズなども影響を受けています。この6名は特に阪東妻三郎を含まない5名がシリーズ路線でものちの日本の芸能や映像作品のシリーズの代表作を残しました。

阪東妻三郎はこの中でシリーズ路線ではあまり大きな成功していない俳優です。順位では4位ですが、忠臣蔵が唯一の16つ(断片などの現存バージョンも含む)で唯一10作を越していますが、国定忠治は6つで、新選組は6とここでは取り上げていない当たり題材のみの総数ランキングの部分ですが、総数だと26つ程度、6名中のダントツ最下位です。トップは下記で誰でもわかるかと思いますが、ダントツで片岡千恵蔵です。千恵蔵は下記の歴代有名題材だけの主演が唯一100つを越しています。牧野省三賞(日本初の正式な映画人の生涯功労賞)の記念すべき1人目の受賞にはこれも大きく貢献していることでしょう。



国定忠治 [VHS]
国定忠治 [VHS]

1960年代を代表するヒットメーカーの巨匠の小沢茂弘と千恵蔵の名コンビのよる時代劇映画、千恵蔵の国定忠治は東映映画『国定忠治(1958)』が現存含むと8作目です。国定忠治題材は1910年代から歴代70作以上の映画が作られている国民的な映画題材のひとつです。

小沢茂弘は事実上、千恵蔵が育てた巨匠監督の一人で、千恵蔵の大ヒットした「地獄シリーズ」をもっとも大きな出世作としており、1960年代には鶴田浩二とのコンビでも爆発的に大当たりしました。その後、戦後デビューの最多映画監督本数の映画監督となっています。

千恵蔵の国定忠治は、1933~1963年の題材歴代最年長の30年間で題材歴代最多の11本、主演は10作、準主役1作、ちなみに名女優・藤純子(現・富司純子)のデビュー作としても一部で知られる1963年の東映映画『八州遊侠伝 男の盃』の千恵蔵は、けんか独楽の源次こと、2代目国定忠治を演じています。



牧野省三賞小沢茂弘八州遊侠伝 男の盃富司純子地獄シリーズ






時代劇六大スターの大まかな功績を残したシリーズや題材






時代劇六大スターの功績を残したシリーズや題材 1923年から1963年の期間
片岡千恵蔵⇒時代劇=忠臣蔵、宮本武蔵、遠山の金さん、清水次郎長、国定忠治、新選組、股旅、大菩薩峠、現代劇=多羅尾伴内、金田一耕助、ギャング
大河内傳次郎⇒丹下左膳、国定忠治、忠臣蔵、水戸黄門、大岡越前
長谷川一夫⇒銭形平次、忠臣蔵、股旅
阪東妻三郎⇒国定忠治、忠臣蔵、新選組
嵐寛寿郎⇒鞍馬天狗、右門捕物帖
市川右太衛門⇒旗本退屈男、忠臣蔵






*当たった題材やシリーズ数が多い順に降下、シリーズや題材のみの表記
*忠臣蔵は赤穂浪士題材でもあります。ここは忠臣蔵に統一しています。
片岡千恵蔵のみが現代劇と時代劇で当たりがシリーズと題材があり、多羅尾伴内、金田一耕助、ギャングは現代劇です。彼は時代劇六大スターの中で唯一、現代劇だけでも通産5000万人以上の観客動員があったと考えられています。
*1923年から1964年の期間の1923年からの期間にしている理由は阪東妻三郎の初の忠臣蔵出演が1923年『仮名手本忠臣蔵』のため
*1963年を期間の最後にしている理由は、千恵蔵の股旅映画のラストが1963年だからです。



いうまでもないですが、片岡千恵蔵がぶっちぎりの大活躍ぶりです。1000万人以上の歴代上位の有名題材数も歴代ナンバーワンです。宮本武蔵も演じ当たり役の一つにしていることから、時代劇と現代劇の二刀流と例えられることがあります。石原裕次郎は失礼ながらたいして有名ではない題材で多く1000万人を呼んでいます。ですが千恵蔵はそれ以上の実積となる歴代の上位の有名題材ばかりということがさらに評価を上げています。

時代劇と現代劇の活躍で6名を評価すると千恵蔵がぶっちぎりのトップです。俳優としても数多くの巨匠や名匠監督にもっとも適応し、対応力に優れた俳優です。ご存じない方もいるかもしれませんが、題材やシリーズにおいては大河内傳次郎が数のみだと2番目です。忠臣蔵についても時代劇六大スターの個々で色々な面があるのですが、もっとも活躍したのは忠臣蔵映画に最多の30本ほど出演している片岡千恵蔵ですが、いずれ深く取り上げる機会を持ちたいと考えています。






片岡千恵蔵阪東妻三郎長谷川一夫市川右太衛門





大映四大スター体制崩壊のみの簡単な流れ~崩壊の6ステップ






大映四大スター体制崩壊のみの簡単な流れ~崩壊の6ステップ


1.1947年12月(昭和22年)に最初の亀裂と部分崩壊⇒千恵蔵=大映に籍を置いたままの事実上の大映傘下の現代劇、東横映画「金田一耕助シリーズ」の1作目『三本指の男』(1947)公開、配給は大映
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2.1948年11月(昭和23年)に大映四大スター体制が崩壊 阪東妻三郎=大映最後の主演出演作現代劇『王将(1948)』が公開、これ以後は活動の全体を大映外に移す。全体を大映外に移したの4名で最初
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3.1948年12月末に片岡千恵蔵の最後の大映主演出演作の多羅尾伴内シリーズ4作目の現代劇『三十三の足跡』の公開、これを最後に完全に大映を離れ、東横(現・東映)へ移籍、東映最初のトップ
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4.1949年7月に市川右太衛門の最後の大映主演作出演の時代劇『大江戸七変化』公開され、大映を離れ、

5.1949年の年間=嵐寛寿郎は大映本数を極限減少させ大映の籍は継続、活動は新東宝メインとなる
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6.1952年2月に嵐寛寿郎の最後の大映主演時代劇『あばれ熨斗』公開、1942年の大映創立時から続いた4大スターの4名全てが大映を去る 事実上の4大スターの全て去る完全崩壊





嵐寛寿郎大河内傳次郎国定忠治宮本武蔵時代劇六大スター大映四大スター






崩壊は悪いことではない 純粋に自分のやるべき活路の開拓だ






やはり大映四大スターといっても事実上のトップ2だった阪東妻三郎と片岡千恵蔵です。この2人で事実上の大映四大スターの直接的な崩壊を招いたといえるでしょう。1947年12月公開の製作=東横映画、配給=大映の「金田一耕助シリーズ」の1作目『三本指の男』が崩壊のきっかけとなり、これ以降の片岡千恵蔵の活動が大映と東横中心になったことが4大スターの枠組みに大きな影響を与え、1948年11月の阪東妻三郎の大映最後の主演出演作現代劇『王将(1948)』を最後に大映を飛び出したことが大映四大スター体制の完全な崩壊につながりました。

4大スターを崩壊させたことは悪いことのように思うかもしれませんが、決してそんなことはなく、だだ純粋に自分の求める待遇や行いたい活動のため、自分のやるべき活路の開拓のために飛び出しただけです。これは逆に評価すべきことです。




昭和21年 プログラム ☆浪華悲歌 溝口健二・監督 山田五十鈴☆運命の饗宴 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督☆霧の夜ばなし 長谷川一夫☆国定忠治 坂東妻三郎☆生きてる死骸 掲載パンフレット
昭和21年 プログラム ☆浪華悲歌 溝口健二・監督 山田五十鈴☆運命の饗宴 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督☆霧の夜ばなし 長谷川一夫☆国定忠治 坂東妻三郎☆生きてる死骸 掲載パンフレット

貴重な映画パンフレットです。リンク文字の坂東妻三郎は間違いで、坂ではなく阪が正解で、阪東妻三郎です。ジュリアン・デュヴィヴィエ運命の饗宴の日本版の公開が、この阪妻の大映映画『国定忠治(1946)』(監督・松田定次)の公開と同時時期の1946年の9月だったことはここではじめて知りました。

運命の饗宴』は日本の戦時下に作られた1942年のアメリカ映画で、フランス5大巨匠(フランスビック5)のうちの一人の巨匠・ジュリアン・デュヴィヴィエの監督作で、彼は日本で非常に高く評価されました。フランスの巨匠が何故アメリカで監督をしていると思う方もいるでしょうが、一言でいえば戦争の影響によって彼はアメリカに亡命し、一次的に監督をしていました。そのときの名作です。

石原裕次郎との映画の名コンビで知られる舛田利雄は、「わが映画人生」というインタビュー番組の中で一番好きな好きな監督にジュリアン・デュヴィヴィエの名前を挙げています。

このパンフ写真は溝口健二の文芸現代劇の『浪華悲歌』、いえ『霧の夜ばなし』です。パンフは長谷川一夫の横顔だからです。当時の東宝が美男美女コンビとして売り出していた長谷川一夫と入江たか子です。また、『浪華悲歌』は1936年に最初の公開された作品で1946年9月に再公開されたこともわかり、『国定忠治(1946)』と『霧の夜ばなし』の公開は1946年の9月10日の同日でした。



フランス5大巨匠石原裕次郎舛田利雄わが映画人生ジュリアン・デュヴィヴィエ






国民的人気の時代劇六大スターと大映 6名の専属で去った初めて来た去る来るの順







さらに下記は時代劇六大スターと大映映画に関する交差を簡単にまとめました。



国民的人気の時代劇六大スターと大映 6名の去る来るの順
1948年11月 阪東妻三郎⇒大映を完全に去る
1948年12月 片岡千恵蔵⇒大映を完全に去る きっかけは阪妻より先
1949年7月 市川右太衛門⇒大映を完全に去る
1949年11月 長谷川一夫⇒大映に最初に来る、1952年5月から完全に大映
1949年12月 大河内傳次郎⇒大映に来る
1952年2月 嵐寛寿郎⇒大映を完全に去る


1948年の11月から1949年の12月までの約1年1ヶ月ほどで阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門が大映を完全に去り、長谷川一夫と大河内傳次郎が大映との最初の関りを持っています。実は日本映画の1950年代中盤から1960年代中盤の最大の黄金期の行方は長年国民的な人気を誇った時代劇六大スターが、何処の映画会社の専属になるかの行方で決まったといってもいいかもしれません。

現実に東映は時代劇六大スターの2名を要した部分も大きな勝因でしたが、いえナンバーワン俳優の千恵蔵の行方で決まったともいえるかもしれません。現実に彼が東映を形成し、もっとも巨匠とコンビを組み、東映でもっとも客を呼び、後輩のデビューや会社のナンバーワン映画会社へ導き、東映京都と同時に東映東京の形成と黄金期の定着の二刀流の貢献、右太衛門以上に評価されています。右太衛門は時代劇のみでした。


長谷川一夫は大映を形成した大映4大スターの残党の嵐寛寿郎が大映を完全に徹退した3ヵ月後に、自身の失敗した制作会社の新演技座を畳んで大映の完全専属になっていることがわかります。嵐寛の3ヵ月後、長谷川の流れの形成はあまり知られていない部分です。この流れがあってこそ、長谷川一夫による第2次の大映スター体制のが成立したことを教えてくれています。




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裏記事は忙しい日々の影響で更新が遅れていますが、10月上旬までに公開予定 公開時のココにリンクを張ります。









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2019/09/30 21:46 | 超大物俳優COMMENT(3)TRACKBACK(0)  

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