映画出演270作の大俳優の代表作『怪猫』と『水戸黄門』と『静御前』をショベルカーする


大友柳太朗は、松竹傘下の映画会社の新興キネマの京都で映画スターとしてデビュー、30作ほどの主演映画が作られました。その後、新興キネマが1942年に合併して大映映画となったときに大友柳太朗は大きな変化に見舞われます。主演俳優を事実上で下ろされて、2番手や3番手俳優、またはそれ以下の助演の映画出演を余儀なくされてしまったのです。

前回記事⇒合わせて映画420作 大友柳太朗と中村錦之助の映画110作が秘めたドラマ




映画出演270作の大俳優の代表作『怪猫』と『水戸黄門』と『静御前』をショベルカーする




大友柳太朗新興キネマ時代は残念ながら現在に伝えられている大きな代表作がありませんでした。ないのか、本当に代表作は存在していないのか、そんなことはありません。代表作はたくさんありました。ただちゃんと伝えていないだけなのです。

大友柳太朗は有名な役柄、または有名な題材に多く出演しています。これは俳優のステータスにもつながるため、ある種の代表的な作品に含まれるかもしれません。そのいくつかをショベルカーでざくざく掘り上げていきます。



日本映画スチール集 新興キネマ モダニズム篇
立花 忠男
ワイズ出版
売り上げランキング: 1,722,771
映画ファンなら知っておきたい世界 
戦前の日本映画の大手からは少しかけ離れていましたが
日本映画の”伸びしろ”に貢献した会社が新興キネマでした。






佐賀怪猫伝』 ヒロイン150作を越す大女優・鈴木澄子の存在感



のちの戦後の大映でヒットする時代劇題材の一つ、1937『佐賀怪猫伝』です。いわゆる怪猫ものです。”かいねこ”と書いて”かいびょう”と読みます。怪猫ものは時代劇で人気がある怪談とも通じる派生的なジャンルともいえます。古い言い伝えに猫に人間の魂が宿るという部分があります。辛い思いを抱えて死んだ恨みを持つ人間と猫を関連付けているのが基本的な怪猫もの映画です。怪猫もの映画は確認できるだけでも30作以上も作られています。

戦後の『怪猫有馬御殿』(1953)から始める入江たか子の老婆が話題になった”大映の怪猫シリーズ”も有名ですが、古くは1910年代の日活や天活などから制作されています。1937年から新興キネマの怪猫シリーズは4作が作られていますが、そのすべてに鈴木澄子が主演しています。ヒロイン数が150作以上の戦前の大女優・鈴木澄子の怪猫シリーズの1作目が『佐賀怪猫伝』です。この作品は大ヒットしたと記録が残されています。この映画の男役の主演が大友柳太朗でした。大友柳太朗の映画出演の第2作目であり、最初の代表作です。





鈴木澄子の怪猫ものシリーズ(新興キネマ)



鈴木澄子が主演した怪猫ものシリーズ(新興キネマ)
佐賀怪猫伝』  1937.02   監督 木藤茂    大友柳太郎、鈴木澄子
『怪猫五十三次』  1938.05    監督 押本七之輔 鈴木澄子、大谷日出夫
『怪猫謎の三味線』  1938.11   監督 牛原虚彦   鈴木澄子、森静子
『怪猫赤壁大明神』  1938.12   監督 森一生    鈴木澄子、歌川絹枝



鈴木澄子が主演した怪猫シリーズの監督はすべてばらばらでした。『佐賀怪猫伝』 の監督の木藤茂は日活の現代劇ので大巨匠・溝口健二に師事し俳優から監督へ転身、俳優と監督でいくつかの代表作を残しました。木藤茂は佐賀ものを含む怪談映画を7作も監督しました。7作も監督した理由が新興キネマの監督1作目の『佐賀怪猫伝』 が大ヒットしたことが原因だと考えられます。さらに時代劇の名監督の押本七之輔、森一生、1920年代から30年代にかけて松竹の現代劇の男性映画を事実上の確立させた履歴を持つ巨匠・牛原虚彦も監督しています。


日本映画傑作全集「怪猫 謎の三味線」 主演 鈴木澄子 牛原虚彦監督作品 VHSビデオソフト (キネマ倶楽部) (キネマ倶楽部)
日本映画傑作全集「怪猫 謎の三味線」 主演 鈴木澄子 牛原虚彦監督作品 VHSビデオソフト (キネマ倶楽部) (キネマ倶楽部)
モノクロに映える眼光は鋭く、見る者の興味を引きつける。
鈴木澄子は怪奇、化け物は当たり役となり、現在でも知られる伝説的女優。
怪猫ものシリーズもいくつかある代表作の一つです。



『怪猫謎の三味線』の新興キネマのオールスター



この中で『怪猫謎の三味線』 は新興キネマのオールスターといえるキャストでした。鈴木澄子、森静子、歌川絹枝、高山広子、若き日のあの森光子、ヒロイン&主演女優の5スターを中心に、新興で活躍した主演スターの浅香新八郎、映画300作の大重鎮の松本泰輔、林長二郎や高田浩吉、坂東好太郎の”松竹時代劇三羽鴉”に次ぐ、主演数を1931~1934にかけて記録した尾上栄五郎、主演が50作を越す喜劇俳優の伴淳三郎、松竹蒲田の元ヒロイン女優の梅村蓉子、主演260作の超大スター・嵐寛寿郎の盟友の嵐徳三郎などが出演しました。10名以上のスターが出演していました。






『水戸黄門漫遊記 九紋龍之巻』 水戸黄門映画でも光圀が主役とは限らない




おなじみの水戸黄門や水戸黄門漫遊記の題材の1937『水戸黄門漫遊記 九紋龍之巻』、水戸黄門役は映画に300作以上出演した大名優&大俳優の松本泰輔ですが、主役はタイトルの通りに九紋竜の長次は大友柳太朗です。水戸黄門だからといって主役が光圀とは限らない部分も、この頃の時代劇映画の多様性の凄さです。現代劇には不可能な普遍性と多様性が時代劇映画には存在し、当時の高い人気へ影響していました。




『水戸黄門 天下の大騒動』(1960)は、戦前から戦後を含めて主演150作ほどの大俳優の大河内伝次郎の最後の主演映画でした。また、東映時代でただ一つの主演映画です。水戸黄門は大河内傳次郎、助さんを品川隆二、格さんを山城新伍が演じています。さらに近衛十四郎と里見浩太朗も重要な役柄で出演しています。






『静御前』 大女優・山田五十鈴とまだ見ぬ巨星・片岡千恵蔵の影




大友柳太朗は1938『静御前』で主演の静御前役の山田五十鈴の相手役の源義経を演じました。大女優の山田五十鈴は時代劇栄えする顔立ちや所作の持ち味から1930年代の映画から、1980年代の「必殺シリーズ」へのテレビ出演まで、数多くの時代劇映画やテレビ時代劇に出演しました。

山田五十鈴はのちの大友柳太朗の大映、東映時代の大先輩・片岡千恵蔵と『瞼の母(1931)』(『番場の忠太郎 瞼の母』)、1931『国士無双』、1932『闇討渡世』、1932『弥太郎笠 去来の巻』、『弥太郎笠 独歩の巻』、戦後初の忠臣蔵の本伝映画『赤穂城』(1952)から始まる3部作、『弥太郎笠(1955)』などの約10作の代表作で共演を果てしいます。


*大友柳太朗は新興キネマ⇒大映⇒東映が主な専属の映画会社でした。




片岡千恵蔵の大ファンでも知られる毒蝮三太夫のプレゼンツ 「番場の忠太郎 瞼の母」
真実の日本映画を知る評論家の佐藤忠男も参加



低予算が多い松竹傘下の新興キネマの中、映画スターが15名ほども出演したオールスターの大作でした。これも大友柳太朗の戦前の代表作といえるでしょう。松竹の重役だった白井信太郎がその傘下の新興キネマで制作を務め、マキノ省三賞を脚本家で最初に受賞した巨星・八尋不二が手がけました。

八尋不二は、日本映画の105年以上の歴史の中で通産の脚本数400以上(現存データは300ほど)とも言われ、歴代で代表作がもっとも多い映画脚本家です。世界の歴代で1位の映画脚本数を誇ります。戦前と戦後を通じで活躍し、時代劇やその映画にもっとも貢献した脚本家としても知られています。

今回は大友柳太朗の埋もれた初期の映画主演の代表作をショベルカー(=今回の記事の内容)でその一部をざくざく掘りあげていきました。


大友柳太朗と超大物の主演100作で出演250作以上やその近辺の映画俳優たちの記事も有
  ↓  ↓
裏面展開「映画出演270作の大俳優の代表作『怪猫』と『水戸黄門』、『静御前』をショベルカーする」


日々探求の励みに⇒にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへにほんブログ村こちらもポチ⇒映画(全般) ブログランキングへ

  

2017/06/18 00:00 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

合わせて映画420作 大友柳太朗と中村錦之助の映画110作が秘めたドラマ

映画愛子は人と比較しないオンリーワンがもっとも大切だと考えていますが、それで済ませてしまうと記事にならないため、さらに追及していこうと思います。


前回記事⇒東宝の歴代ナンバーワン俳優の裏にうごめく知恵袋 フランスベテラン女優の面影


前回は↑<戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数が途絶えた順番>を取り上げました。
まことに申し上げありません。膨大な量になるのでいっぺんに取り上げれない理由から、とある人物の存在を今回に引き伸ばしさせていただきました。今回はそのもう1人の存在を浮き彫りにしたいと思います。




完全版「戦後の10年連続以上の年間主演5作俳優、連続年数が途絶えた順番」





<戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数が途絶えた順番>
途絶えた年 俳優名  連続年数  連続年数の内訳

1961    長谷川一夫    12    1950~1961
1962    市川右太衛門  11    1952~1962  
1963    中村錦之助    10    1954~1963
1963    美空ひばり    13    1951~1963
1963    片岡千恵蔵    14    1950~1963

1963    大友柳太朗     10     1954~1963

1965     大川橋蔵     10    1956~1965   
1966    森繁久彌      12    1955~1966
1967    市川雷蔵     13    1955~1967
1968    勝新太郎      14    1955~1968
1970    小林旭       13    1958~1970
1972    鶴田浩二      12    1961~1972



上記の<戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数が途絶えた順番>の最後の1人の存在が上記の大友柳太朗の存在です。同時に上記の”戦後に10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優”は12名です。

これで東映が”10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優”が通産で7名になりました。7名の内訳・片岡千恵蔵、市川右太衛門、美空ひばり中村錦之助大友柳太朗、大川橋蔵、鶴田浩二、大映3名、東宝1名、日活1名、松竹、6社目の新東宝0名です。さらに下記の戦後の年間主演5作以上を10年以上記録した俳優の連続年数も更新してみます。




ご存じ快傑黒頭巾 マグナの鐘 1955年映画パンフレット 佐伯清・監督 大友柳太朗 喜多川千鶴 目黒祐樹
『ご存じ快傑黒頭巾 マグナの鐘』(1955)は大友柳太朗の最大の当たり役、「快傑黒頭巾シリーズ」の第3弾、のちの高倉健の「昭和残侠伝シリーズ」を大成功させた名匠・佐伯清が監督でした。原作は児童文化学作家の高垣眸(たかがきひとみ、ひとみと読みますが性別は男性)
佐伯清高倉健とコンビを形成する前には大友柳太朗と11作の映画でコンビがあり、このことはあまり知られていない事実です。快傑黒頭巾はのちにテレビドラマでも何度も映像化されています。頭巾姿の大友柳太朗と奥の女性は喜多川千鶴です。


完全版「戦後の年間主演5作以上を10年以上記録した俳優の連続年数」




<戦後の年間主演5作以上を10年以上記録した俳優の連続年数>
        連続年数 連続した年数の内訳
1  片岡千恵蔵    14   1950~1963
2  勝新太郎     14   1955~1968
3  美空ひばり    13   1951~1963
4  市川雷蔵     13   1955~1967
5  小林旭       13   1958~1970
6  長谷川一夫    12   1950~1961
7  森繁久彌      12   1955~1966
8  鶴田浩二      12   1961~1972
9  市川右太衛門  11   1952~1962
10  大友柳太朗    10   1954~1963
11  中村錦之助    10   1954~1963
12  大川橋蔵     10   1956~1965



上記のようになります。同数の場合は記録のスタート年数の方が上位にしています。この12名の中で同じ連続年数でスタートと途切れた年が同じ年数1954~1963の俳優がいます。それは大友柳太朗と中村錦之助です。



<大友柳太朗と中村錦之助の2人の年間5作連続主演数の記録が重なりあった部分>
10 大友柳太朗    10   1954~1963
11 中村錦之助    10   1954~1963



何故に大友柳太朗の方を上にしているかですが、ルールにもよって変化しそうですがここではデビュー年数が早いことを基準にしていますが、通産の映画出演数が100作以上も多いことも影響しています。大友柳太朗は戦前の1937年に映画デビュー、中村錦之助は戦後の1954年にデビューしています。

中村錦之助は美空ひばりの相手役の『ひよどり草紙』でデビューを飾り、『新諸国物語 笛吹童子』で東千代之助とのダブル主演作で初主演を務めました。『ひよどり草紙』は主演とも言えるかも知れませんが今回は相手役の扱いをしています。

大友柳太朗はそれよりも15年以上前から主演で活躍していたことから順位を上にしています。今回の本題ですが、実は大友柳太朗と中村錦之助はいくつかの共通点が存在しています。その部分に少しでも迫れたら嬉しいです。


ひよどり草紙 [VHS]
ひよどり草紙』のVHSは販売されていますが、DVDはリリースされていないようです。大きく美空ひばりの主演の文字、販売はコロムビアの文字があり、日本コロムビアのことです。販売価格9515円の文字がかなり高価です。




大友柳太朗と中村錦之助の主演数は110作なのに大きく異なる部分




大友柳太朗と中村錦之助の共通点の一つが主演映画の本数です。大友柳太朗は確認できる限りでは110作以上の主演映画が存在が確認できます。一方、中村錦之助も110本強です。ほぼ同数の主演映画が作られました。



ほぼ同じ110作といっても2人は大きく異なるタイプの俳優でした。それは活動の仕方の違いにもみられます。大友柳太朗は主演と助演の両方向で長期間にわたって活躍した俳優でしたが、中村錦之助は主演が中心に助演の代表作もいくつかの数が存在している俳優でした。この部分は重要なことです。何でどちらが活躍したとは一概に言いにくい部分もあります。

大友柳太朗の映画出演本数は270作以上ですが、中村錦之助は145作(合わせて415作、約420作)ほどであり、トータルの映画出演数が全然違います。大友柳太朗が中村錦之助の2倍近い出演映画数を誇っています。膨大な135作以上の映画出演数の差が存在しています。

一言でいうと主演と助演を含めた出演数の代表作では大友柳太朗の方が多く、主演の代表作では中村錦之助の方が多いです。




<大友柳太朗と中村錦之助の映画出演数と主演数>
大友柳太朗 映画出演270作強 主演数110作強
中村錦之助 映画出演145作強 主演数110作ほど



大友柳太朗はデビューした1937年と1938年に年間主演数9を記録しています。また、1940年と1941年にも年間主演数5以上を記録し、戦前に4度の年間主演数5以上がありました。年間主演5作以上を戦前に4、戦後に10で通産で14度記録しています。こうした部分からもトータルで長年で映画スターだったのが大友柳太朗といえます。



<大友柳太朗と中村錦之助の年間主演数5以上回数>
大友柳太朗 通算14度、1937~1938、1940~1941、1954~1963
中村錦之助 通算10度、1954~1963



また、大友柳太朗の戦前の主演映画は確認できるのみで37作あります。戦前と戦後の両方の異なる時代で主演30作以上を記録した映画スターの俳優は日本の歴代に20名もいません。大友柳太朗もその数少ない一人です。戦前の多くの映画スターは戦後には引退したり、助演や脇役に回っていることが多数だったことからも彼は認められた俳優だったといえるでしょう。


新諸国物語 「紅孔雀 第一集」 [DVD]
東映ビデオ (2004-10-21)
売り上げランキング: 32,901

中村錦之助、東千代之介、大友柳太朗の3大スターを軸に展開する冒険活劇時代劇、大旋風を巻き起こした新諸国物語シリーズでしたが、大友柳太朗は新諸国物語やその関連作の12作へ出演していました。新諸国物語シリーズは最低でも2000万人以上の観客が見ているものと考えられます。「新諸国物語 紅孔雀」だけでも1000万人近い観客を動員したといわれています。



中村錦之助と大友柳太朗の個々の個性を大切に伝えてほしい現実




マスコミ的には現在の高齢者の世代が近い方の俳優の中村錦之助の方を大きく位置づけている印象がありますが、実はそれにも疑問符が存在しています。テレビドラマのことも含めてしまうと主演でも活躍したことから中村錦之助(1970年代前半から萬屋錦之介に改名)の方が活躍したといえるでしょう。さらに映画では巨匠のコンビ数では中村錦之助の方が本数が多く多彩であり、これら面も影響していると考えられますが、今回取り上げた出演数や戦前の部分も含めるとそれだけで決め付けてしまうのもおかしな部分だといえるでしょう。


今回の記事の裏側⇒忘れ去られた児童文学作家 高垣眸と頭巾もの有名映画たち
 頭巾もの有名映画たちにも迫ります。



日々探求の励みに⇒にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへにほんブログ村こちらもポチ⇒映画(全般) ブログランキングへ

  

2017/06/06 00:00 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

東宝の歴代ナンバーワン俳優の裏にうごめく知恵袋 フランスベテラン女優の面影



戦略、それは時に勝利するために大切です。
他社に対するためにある知恵袋を働かせた会社がありました。


前回記事⇒6番手11人目が大川橋蔵のワケ 最大のライバルと勝負の行方



東映が日本映画黄金期の俳優にとってトップの場所だった現実




まずは下記をご覧ください。


<戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数が途絶えた順番>
途絶えた年 俳優名  連続年数  連続年数の内訳

1961    長谷川一夫    12    1950~1961
1962    市川右太衛門   11    1952~1962  
1963    中村錦之助    10    1954~1963
1963    美空ひばり    13    1951~1963
1963    片岡千恵蔵    14    1950~1963
1965     大川橋蔵      10    1956~1965   
1966    森繁久彌      12    1955~1966
1967    市川雷蔵     13    1955~1967
1968    勝新太郎      14    1955~1968
1970    小林旭       13    1958~1970
1972    鶴田浩二      12    1961~1972



戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優は全部で12名いました。記録の期間内の半分くらいが東映の俳優です。片岡千恵蔵、市川右太衛門、中村錦之助、美空ひばり、大川橋蔵、鶴田浩二、上記の11名中、東映の専属、または東映が中心の映画スターが半分以上の6名もいたことになります。

この半分に上という部分も東映が日本映画黄金期の俳優にとってトップの場所だった理由の一つといえるでしょう。大映は長谷川一夫、市川雷蔵、勝新太郎の3名で2番目でしたが、日活は小林旭のみ、東宝森繁久彌のみでした。新東宝や松竹は残念ながら0名です。


人物では最後に表記している今回は森繁久彌を中心に進めていきます。

上記の1966    森繁久彌      12    1955~1966の部分

映画パンフレット 「夢一族 ザ・らいばる」 監督 久世光彦出演森繁久彌、郷ひろみ

森繁久彌と郷ひろみがダブル主演した1979年の東映京都の映画「夢一族 ザ・らいばる」、森繁久彌は通産で130作強の主演作、郷ひろみは6作目の主演作でした。通産で250作以上の映画を手がけた東映の名制作者の俊藤浩滋が企画参加し、テレビドラマの名演出家や名プロデュサーの久世光彦が初めて手がけた映画でした。




森繁久彌の12年連続の主演5作は東宝中心?!





森繁久彌は1953年に自身で初の年間主演を5を初めて記録していますが、1954年は2作のみでした。2年連続主演5以上は1955年からスタートしました。ですが、すべてが東宝ということがない部分は特徴的でした。

1955年は新東宝4、東京映画を含む監督・豊田四郎の「夫婦善哉」などで東宝が3、監督・マキノ雅弘の「人生とんぼ返り」などの日活2で主演数が9、1956年は東京映画宝塚映画を含む東宝が7、新東宝1、日活1、松竹1で主演数が自身初の年間10に到達、1956年の監督・千葉泰樹の「へそくり社長」から最大の代表作シリーズの社長シリーズがスタートしています。

1957は1作のみの松竹主演作がありますが、1958年からは東宝のみの主演が1960年まで続いていきます。喜劇俳優として活躍した伴淳三郎とのダブル主演「伴淳・森繁のおったまげ村物語」という映画で松竹主演作に久々の主演を果たしています。全般的には東宝やその関連の東京映画宝塚映画が制作した東宝の配給作、事実上の東宝作品でした。

森繁久彌の12年連続の主演5作は東宝中心、全般的には東宝で到達した 12年連続の年間主演数5以上だったといっても過言はないレベルです。12年連続の主演5作の全体の主演映画数の99作中、86作が事実上の東宝でした。


映画チラシ 「小説吉田学校」監督・森谷司郎 出演・森繁久彌/芦田伸介
1982年公開の東宝の配給による『小説吉田学校』は森繁久彌の晩年の代表作の一つ、『夢一族 ザ・らいばる』に次ぐ主演作であり、吉田茂を演じました。監督の森谷司郎は生涯で20作強、日本の映画監督としては少数ですが、1973年『日本沈没』や1977年『八甲田山』などの大型作品をいくつか手がけました。




森繁久彌の12年連続主演5以上の期間中の主演映画の制作会社の内訳




<森繁久彌の12年連続主演5以上の期間中の主演映画の制作会社の内訳>

1955 日活3、新東宝4、東宝1、東京映画1=9
1956 東宝3、新東宝1、日活1、東京映画3、松竹大船1、宝塚映画1=10
1957 東京映画3、松竹京都1、宝塚映画1=5
1958 東宝2、東京映画4、宝塚映画3、東映動画1(東映)=10
1959 東宝3、東京映画2、宝塚映画1=6

1960 東京映画2、東宝6(=内1つに共同で森繁プロ)=8
1961 東京映画4 宝塚映画2、東宝3、松竹大船1=10、
1962 東宝4、関西喜劇人協会と松竹京都1、東京映画3、宝塚映画1=9
1963 東宝4、東京映画5=9
1964 東宝4、東京映画4、宝塚映画1=9
10
1965 東宝2、東京映画5=7
1966 東宝2、東京映画5=7

12年連続主演5以上の期間中の主演映画=全体で99作



東宝が自社のナンバーワン俳優の森繁久彌に何を求めていたのでしょうか。それはそのときだけではない、後の評価だったのではないでしょうか。評価されるためには多様性が求められます。



東宝や関連するテレビ、新聞などのマスメディアが隠し続ける東宝の闇の過去




森繁久彌の12年連続主演5以上の期間中の主演映画の制作会社の内訳・主演数の現実





<森繁久彌の12年連続主演5以上の期間中の主演映画の制作会社の内訳・主演数の多い順>

・東京映画40
・東宝36
・宝塚映画10
・新東宝5
・日活4
・松竹大船2
・関西喜劇人協会と松竹京都1
・東映動画1(現・東映アニメーション)



何も知らない人が見ると森繁久彌が99作の主演作で8社に出演したように思えます、がしかし・・・


     ↓   ↓    ↓    ↓    ↓




<森繁久彌の12年連続主演5以上の期間中の主演映画の制作会社の内訳・主演数の多い順>

・東宝36、東京映画40、宝塚映画10(=配給はすべて東宝、東宝系列は86)
・新東宝5
・日活4、
・松竹大船2、関西喜劇人協会と松竹京都1(=松竹3)
・東映動画1(=東映1)



現実は(=○○)の部分がこれが隠されていました。8から5大きな減少です。
事実上は5社といえば5社です。



ある程度の多様性レベルで文化勲章を貰えるフランス、欧米の首をかしげる実態





数多くの会社に出ていることや多様性が存在知ることが評価という概念が欧米には日本上に存在しています。わたくしこと映画愛子も海外の女優などの映画やその記録を見たりすると驚くことがあります。とあるフランスの存命のベテラン女優さんなのですが、いわゆる戦後のフランス映画黄金期にヒロイン女優があった人物です。ですが、大きな代表作や多くの代表作がほとんどない。なのにフランス本国から勲章を貰っているのです。フランスといえば北野武のことについても個人的には大疑問なわけですが、北野武のような映画を手がけた監督は日本の歴代に数多くいるからですが、その部分は複雑なので今回は避けておきましょう。

ベテラン女優さんは日本で言うと文化勲章に近いかもしれませんが、勲章を貰っています。最初は大きな理由がわかりませんでしたが、その理由を探っていると多くのスター俳優と共演している事実がわかりました。

フランスを代表する国民的スターのアラン・ドロン(Alain Delon)とジャン・ポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo)、顔芸の達人であり、フランスの国民的喜劇スターのルイ・ド・フュネス(Louis de Funès)など20名強のスターと30作以上で共演していました。巨匠や名監督の作品にはほとんど出演ていなくとも、こうした数多くのスター共演との履歴で高く評価されているようなのです。日本ではこれ以上の人物が歴代には多くいるため、それほどたいしたことではないと無視されがちですが、特に欧州なら日本以上に何でもアリです。


【映画パンフ】太陽のサレーヌ ジョルジュ・ロートネル ミレーユ・ダルク

映画に詳しい人ならこの写真だけでも誰だか判ると思いますが、名前はあえて伏せておきます。彼女は19作の長編映画の主演作があります。1960年代の前半から1970年代の後半に掛けてもっとも活躍し、長編映画以外にはテレビムービーが6作、ショートムービーが2作がありますが、また、主演とは別にヒロイン作は10作ほどです。主演と合わせてヒロイン以上は30作ほどになりますが、ヒロイン以上や代表作も少なくフランス国内の歴代上位とはいえません。




まさかの関わり フランスのベテラン女優と森繁久彌


上記のフランスのベテラン女優さんは多くのスター俳優と共演しましたが、多くの多様性から評価につながる機会が増えるため、東宝が系列も含めたいくつかの会社へ自社ナンバーワン俳優の森繁久彌の主演映画を制作させた部分もあったのではないでしょうか。まさに知恵袋と言えるかもしれません。


数分後にリンク予定⇒森繁久彌 東宝の多角経営の過大評価とゴジラ映画のパクリ疑惑
森繁久彌や東宝の多角経営の過大評価やゴジラ映画のパクリ疑惑って・・・何なの



日々探求の励みに⇒にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへにほんブログ村こちらもポチ⇒映画(全般) ブログランキングへ

  

2017/05/23 00:01 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

6番手11人目が大川橋蔵のワケ 最大のライバルと勝負の行方





前回は「戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数が途絶えた順番」を取り上げましたが、あえて外していたのですが、もう1人記録に到達した俳優がいます。



戦後を代表する日本の映画スター&東映を代表する時代劇スター大川橋蔵




それが大川橋蔵です。大川橋蔵は戦後を代表する日本の映画スター&東映を代表する時代劇スターの1人として活躍しました。1955年にデビューして、1955年から1967年まで13年連続主演1作以上を記録しました。13年間で110作強の映画に出演、9作が作られた『若さま侍捕物帖シリーズ』や『新吾十番勝負』や『新吾二十番勝負』、『新吾番外勝負』を含む9作の通称”新吾ものシリーズ”、『喧嘩道中』からはじまる股旅4作の『草間の半次郎シリーズ』、1時間弱の中篇映画『江戸三国志』3部作などを主に残しました。


1960年東映作品しおり 新吾十番勝負 完結篇 B5サイズ・2つ折りタイプ 大川橋蔵 大友柳太郎 月形龍之介 丘さとみ 映画パンフレット・兼用
『新吾十番勝負 完結篇』は新吾十番勝負シリーズ、新吾もの、新吾勝負もの事実上の4、または5作目に該当します。

その理由などは裏側に⇒裏側「6番手11人目が大川橋蔵のワケ 最大のライバルと勝負の行方」




単発映画の代表作では中村錦之助とダブル主演の『曽我兄弟 富士の夜襲』、『幽霊島の掟』、『幕末残酷物語』、テレビドラマの代表作の映画版『銭形平次(1967)』などの代表作がある大スターでした。映画主演の代表作は30作を越していおり、助演でも浅野内匠頭を演じた『赤穂浪士(1961)』など多くの大ヒット作や名作に出演し、大きく貢献しました。トータルの主演映画数は三船敏郎や渥美清らを上回る戦後20位の80作に到達しました。

1967年の『銭形平次(1967)』を最後に事実上の映画俳優を廃業し、テレビ時代劇の俳優として888話の銭形平次や数本の長篇時代劇のみが活動の場となりました。



曾我兄弟 (新・講談社の絵本)
曾我兄弟(または曽我兄弟の表記)は”曾我兄弟の仇討ち”としても知られる日本三大仇討ちに称される一つ、戦前から戦後に掛けて10度以上映像化されてきた曾我兄弟題材作、その東映版の大ヒット作『曽我兄弟 富士の夜襲』は大川橋蔵も出演していました。




大川橋蔵は6番手で11人目の俳優





大川橋蔵も「戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優」の1人でした。表記は11人目ですが、途切れた順は6番目になります。下記が大川橋蔵を追加した戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数が途絶えた順番です。


<戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数が途絶えた順番>
途絶えた年 俳優名  連続年数  連続年数の内訳

1961    長谷川一夫    12    1950~1961
1962    市川右太衛門   11    1952~1962  
1963    中村錦之助    10    1954~1963
1963    美空ひばり    13    1951~1963
1963    片岡千恵蔵    14    1950~1963
--
1965   大川橋蔵      10    1956~1965
--  
1966    森繁久彌      12    1955~1966 
1967    市川雷蔵     13    1955~1967
1968    勝新太郎      14    1955~1968
1970    小林旭       13    1958~1970
1972    鶴田浩二      12    1961~1972





意外なことに映画時代の大きなライバルであった中村錦之助と「戦後の10年連続以上の年間主演5作」で並んでおり、中村錦之助はデビューした1954から1963年で途絶えていますが、大川橋蔵はデビューは1955年の12月に『笛吹若武者』でデビューしてから、2年目の1956から1965年にかけての10年間であり、両者とも10年間の記録ですが、記録した年数が2年間ずれています。中村錦之助が1963年で主演5作が途絶えたことにも触れておきましょう。

テレビの普及で自宅で時代劇が観れるようになったことから、本数のニーズが低下したことも大きな部分ですが、内田吐夢とコンビを組んだ5部作の宮本武蔵も要因といえるでしょう。時間をかけて製作した作品であり、主演数が自然と減少しました。一方、ライバルだった大川橋蔵はそれに反して本数を撮る方向で活動したのが、この1964年と1965年だったということになります。大川橋蔵の10年連続主演5作以上が1965年まで続いた部分には個々の活動の違いも影響していました。



笛吹若武者 [DVD]
笛吹若武者 [DVD]
posted with amazlet at 17.05.09
東映ビデオ (2005-03-21)
売り上げランキング: 116,443
2005年に商品化されていたことに驚きましたが、大川橋蔵のデビュー作『笛吹若武者』は、ナンバーワン女優の美空ひばりといきなりの共演&ダブル主演でした。東映側から大川橋蔵への期待が高かったことがわかります。監督は大川橋蔵と映画時代の代表作の数本やテレビ時代劇『銭形平次』においても縁のあった巨匠・佐々木康でした。




大川橋蔵と最大の好敵手の中村錦之助と数と質、巨匠たちの勝負





中村錦之助の「戦後の10年連続以上の年間主演5作」が途絶えた1963年のその翌年1964、1965年も大川橋蔵は年間主演数5を維持していました。このときの二人を比べると二人の活動に変化が見られます。それが質と数です。大川橋蔵はこれまでどおり数の方向へ向かいましたが、中村錦之助は数よりも質の方向へシフトしたことが伺い知れます。



・大川橋蔵の1964年8作、1965年の5作 
・中村錦之助の1964年3作、1965年の4作


<大川橋蔵の1964年と1965年>
1964年は新吾もの8作目や番外編に該当する『新吾番外勝負』、話題作『幕末残酷物語』が公開、『新吾番外勝負』は東映や日本映画の7年連続8億人に大きく貢献した大ヒットメーカーの巨匠・松田定次の東映時代で最後の代表作といえる作品でした。1965年は5作の主演がありましたが大きな代表作なかったと言わざる得ないところですが、、『大勝負』は日活で活躍した井上梅次を監督に招いて製作され、大川橋蔵、大友柳太朗と片岡千恵蔵の3大スターを軸に描いた野心作でした。

<中村錦之助の1964年と1965年>
1964年は4作目『宮本武蔵 一乗寺の決斗』、 田坂具隆の歴史文芸『鮫』、 巨匠・今井正の数少ない時代劇映画『仇討』、
1965年は山本周五郎の文芸時代劇の田坂具隆で映像化した『冷飯とおさんとちゃん』、完結編の5作目『宮本武蔵 巌流島の決斗』などの代表作がありました。


幕末残酷物語 [DVD]
幕末残酷物語 [DVD]
posted with amazlet at 17.05.09
東映ビデオ (2004-10-21)
売り上げランキング: 142,154

前年1963年の今井正×中村錦之助コンビの『武士道残酷物語』の大ヒット作との関連も指摘される、加藤泰×大川橋蔵の1964年『幕末残酷物語』も話題になりました。幕末の残酷さを問いかける内容、個人的には現代的な抗争劇などの要素を詰め込んでおり前衛さがあまり評価できない部分の時代劇映画でしたが、時代劇の概念に横槍の一石を投じる風潮は観る人によっては評価されています。




両雄の勝負の行方 名匠の文芸時代劇の代表作




1964、1965年の大川橋蔵主演作が13作、中村錦之助は主演が7作と6作も主演数に差がありましたが、代表作の数では主演が少ない中村錦之助が上回っていました。個人的には両者とも評価しているわけですが、中村錦之助は全般的には娯楽時代劇の代表作がほとんどを占めていますが、戦前から日活や大スター・入江たか子などと縁があった監督の田坂具隆とのコンビで、文芸時代劇の代表作が2作生み出せたところも大きな実積でした。



大川橋蔵は1967年に事実上に映画界を引退し、自分の意思でテレビドラマのみの活動に専念したため、中村錦之助が到達した映画主演数は100作の大記録は叶いませんでしたが、戦後の時代劇映画の発展や多様性に大きく貢献した俳優の1人でした。



姉妹サイトで映画話も登場⇒伝説のテレビドラマ『琴姫七変化』で活躍した男女の真相

今回の裏話へ⇒裏側「6番手11人目が大川橋蔵のワケ 最大のライバルと勝負の行方」

日々探求の励みに⇒にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへにほんブログ村こちらもポチ⇒映画(全般) ブログランキングへ

  

2017/05/10 00:00 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

高倉健が10年連続主演×作に到達しなかった原因 そびえ立つ大山脈


現在の人気はテレビなどが過剰に取り上げることによってもいくらでも誇張できますが、それは本当の人気の証拠にはなりません。やはり記録に残っているということが真の人気や活躍を占めるものになります。やはり存在しない証拠よりは存在する証拠の方が大切なのです。前回の流れでさらに深い部分に踏み込んでいこうと考えています。「高倉健が10年連続主演×作に到達しなかった原因 そびえ立つ大山脈」が始まります。



前回記事⇒○作連続主演数世界1位 映画俳優の大記録を掘れ

戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数が途絶えた順番




<戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で年間主演5作が途絶えた順番>
途絶えた年 俳優名  連続年数  連続年数の内訳

1961    長谷川一夫    12    1950~1961
1962    市川右太衛門   11    1952~1962  
1963    中村錦之助    10    1954~1963
1963    美空ひばり    13    1951~1963
1963    片岡千恵蔵    14    1950~1963
1966    森繁久彌      12    1955~1966
1967    市川雷蔵     13    1955~1967
1968    勝新太郎      14    1955~1968
1970    小林旭       13    1958~1970
1972    鶴田浩二      12    1961~1972





意外なことに戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で、連続年数が最初に途絶えた俳優の長谷川一夫でした。長谷川一夫が最初に記録を途切れた理由などは裏ブログの方へ
  ↓   ↓   
国民栄誉賞は過大評価!! 日本映画最大の黄金期の片岡千恵蔵VS長谷川一夫の7ラウンド勝負

1958年映画パンフレット 日蓮と蒙古大襲来 長谷川一夫 市川雷蔵 勝新太郎 黒川弥太郎 淡島千景
戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数がもっとも早く途絶えた俳優の長谷川一夫、
あまりイメージにない彼の演じた日蓮の坊主姿 1958年の大映の大作&オールスター映画『日蓮と蒙古大襲来』の貴重なポスターです。
日蓮と蒙古大襲来』は長谷川一夫と20作近い名コンビを組んだ巨匠・渡辺邦男が監督をしています。




日本映画で最期の10年連続以上の年間主演5作以上の俳優が鶴田浩二




日本映画で最期の10年連続以上の年間主演5作以上の俳優が鶴田浩二でした。

鶴田浩二が10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優の中で10人目に記録が途絶えています。鶴田浩二の存在は日本映画がもっとも輝きを放った時期の最期の存在だったといえるのかもしれません。


ここであることに注目してみましょう。上記の10名に高倉健が入っていません。その理由は何故でしょう。残念ながら高倉健は10年連続以上の年間主演5作以上を1度も記録していません。これは彼を上回る映画スターが存在していたことを物語る証拠の一つといえます。


高倉健は1956~1961に6年連続で主演5以上、1963~1971に9年連続で主演5以上を記録しましたが、惜しくも10年連続以上の年間主演5作以上は逃してしまいました。この1956~1961に6年連続で途絶えた理由には鶴田浩二美空ひばりなどの大先輩俳優の存在が挙げられます。



1962年の高倉健の出演映画




<1962年の高倉健の出演映画>
南太平洋波高し          主演・鶴田浩二 監督・渡辺邦男
べらんめえ芸者と大阪娘     主演・美空ひばり 監督・渡辺邦男
二・二六事件 脱出        主演・高倉健 監督・小林恒夫
恋と太陽とギャング        主演・高倉健 監督・石井輝男
千姫と秀頼             主演・美空ひばり中村錦之助 監督・マキノ雅弘

黄門社長漫遊記         主演・進藤英太郎 監督・小石栄一
民謡の旅 桜島 おてもやん  主演・美空ひばり 監督・渡辺邦男
東京丸の内            主演・高倉健と佐久間良子 監督・小西通雄
三百六十五夜           主演・美空ひばり 監督・渡辺邦男
暗黒街最後の日         主演・鶴田浩二 監督・井上梅次
10
東京アンタッチャブル      主演・高倉健 監督・村山新治
遊民街の銃弾           主演・丹波哲郎 監督・飯塚増一
裏切者は地獄だぜ       主演・片岡千恵蔵 監督・小沢茂弘
計13

主演でないものは基本は相手役または2番手、3番手を維持



高倉 健 [TX-6092] [ポスター]
『日本侠客伝』や『昭和残侠伝』などの任侠シリーズからのものだと考えられる高倉健の上半身の半裸写真、
映像に映えるきれいな刺青も優れた職人によるものです。





そびえ立つ大山脈①と4作共演した高倉健の微妙に歯がゆい現実




美空ひばりの相手役を『べらんめえ芸者と大阪娘』と『民謡の旅 桜島 おてもやん』、『三百六十五夜』で勤めています。男役ではトップでしたがやはり主役というよりは美空ひばりの引き立て役を負かされていたと捉えるべきだと考えています。1962年の高倉健は渡辺邦男の映画に4作も出演していますが、主演はありませんでした。

映画愛子も視聴済みの前年の1961年に『悪魔の手毬唄』で渡辺邦男とのコンビで主演作が1つあります。この映画は初代・金田一耕助の片岡千恵蔵が定着させた清潔な金田一耕助のイメージを継承や踏襲した作品でした。相手役や継承作があることからも、ある程度の評価は得ていましたが、この時点では高倉健は東映では数番手の映画スターだったことも意味しています。




そびえ立つ大山脈②の前に助演俳優と化した高倉健




千姫と秀頼』は主演の千姫の美空ひばりと秀頼の中村錦之助のダブル主演の次ぐ、3番手、大ヒットしたギャングシリーズの『裏切者は地獄だぜ』も片岡千恵蔵、鶴田浩二に次ぐ、3番手扱いでした。丹波哲郎はトータルでは主演数は30作ほどの俳優でしたが、東映も他の主演の多様性を求めていたのでしょう。彼に主役を任せて、高倉健はあえて2番手で出演しています。


1962年の高倉健の鶴田浩二の主演映画への2番手は『南太平洋波高し』、『暗黒街最後の日』の2作でしたが、1962年の共演は他に2作あり通産で4作です。『裏切者は地獄だぜ』は上記と同様ですが、『三百六十五夜』は鶴田浩二が高倉健に次ぎ、3番手的立場で出演しています。


つまり、1962年の高倉健は主演4作、助演9作(相手役含む)で13作に出演していました。高倉健が1956~1961で6年連続の主演5以上が途絶えた理由は相手役を含んだ助演が増加し、美空ひばりや鶴田浩二の大きな存在(=そびえ立つ大山脈)が影響していました。東映は東宝から移籍してきた鶴田浩二の方を高倉健よりも優先的に売り出していたことも原因しています。


そびえ立つ大山脈①美空ひばり そびえ立つ大山脈②鶴田浩二



父・鶴田浩二の影法師―末娘が綴った銀幕スタアの真実
鶴田 さやか
マガジンハウス
売り上げランキング: 833,589

歌手活動も行いながらオリジナルビデオ(OV)などにも出演している鶴田浩二の娘
鶴田さやかの秘蔵の秘密のベールが開く


前回の裏側⇒ある銀幕スターが大問題をさせた1941年 幻の忠臣蔵映画の存在
これぞ映画愛、忠臣蔵とマーロン・ブランドの夢のコラボレーション!
日々探求の励みに⇒にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへにほんブログ村こちらもポチ⇒映画(全般) ブログランキングへ

  

2017/04/27 00:03 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

 | BLOG TOP |  NEXT»»