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前田慶次の映画に秘められた後年の謎たちとアノ名脚本家の存在


「あばれ大名」の内容の現実と創作部分


前田慶次郎前田慶次として今に知られる前田利益(まえだとします)は、大名というより現実的には武将といえるのかもしれません。ですが映画「あばれ大名」(1958)には前田利家という大名が出てくるため、武将であってもタイトルとして大名を付けているのかもしれません。東映の映画時代劇の「あばれ大名」の脚本家である鈴木兵吾などに聞いてみないとその辺の真意は不明です。その辺を考えてみるのもテレビ時代劇に無いような映画時代劇のおもしろいところなのです。

「大名」とは政治とか軍事など数多くのことを仕事としていますが、大名の部下の武将は、軍事のことだけの専門家といえるところがあります。そういう事実からすると現実としては違うのでしょう。

現実の資料や諸説ありますが、加賀藩史料の野崎知通の遺書では、関ヶ原の戦いの後も利益のいたずら癖、奇行は治まる事はなく、利家の後を継いだ藩主・前田利長の命によって”大和国刈布に隠棲”とあり、この関ヶ原の戦いの後のいたずら部分や奇行がこの映画「あばれ大名」の内容の徳川家康と前田慶次郎や利家を巻き込んだ陰謀事件の元になっているのかもしれません。時代劇なので最低限な事実は大切ですが、現実的過ぎると面白くないので膨らましの話でもある程度はよいのです。世の中的にはそれを許さない傾向にある感じはきついですが、リアルや資料などにある事実だけだと作家や脚本家などの自由な創作である部分にメスが入ってしまい、作品自体をつまらなくさせるためにもそう考えています。映画だけではなく、ドラマや小説、漫画などにも通じることです。

前田慶次または前田慶次郎の隠棲についての諸説AtoB


前田慶次または前田慶次郎は晩年に隠棲していますが、諸説あるようで、AとBの説があります。Aは米沢側の資料では、堂森(現・山形県米沢市)に隠棲した。Bは加賀藩史料では、藩主前田利長の命によって加賀(石川県)から大和国刈布(奈良県)に隠棲した。

没した場所についても違いがあります。Aは米沢側の資料・慶長17年(1612年)6月4日に現・山形県の堂森で没したとされる説があります。Bは加賀藩史料・慶長10年(1605年)に大和国刈布(奈良県)の地で生涯を終えたとされています。

葬られた寺が現在では廃寺となっているため、有力な痕跡が残されていることから供養塔が建てられています。堂森の善光寺に供養塔は、昭和55年(1980年)に建てられたものであり、別な説もあるため不思議な感じです。例を挙げると紫式部などもいくつかの土地で碑がある人物が存在しています。どちらが本物なのかはわかりませんが居たことは事実のようです。


いわゆる”前進座時代劇”に該当し、なおかつ”オールスターの忠臣蔵映画”「元禄忠臣藏(前篇・後篇)」主演は河原崎長十郎ですが、後半はあまり印象に残りません。それはこの人が出ているからです。市川右太衛門は”甲府中納言・徳川綱豊”役で後編の主役のように冒頭に登場しています。巨匠・溝口健二と右太衛門の唯一の関わりが素晴らしいものです。

前回の記事⇒若隠居から暴れ大名として変貌する男と加賀藩の第11代藩主で加賀前田家12代

名脚本家の鈴木兵吾と時代劇映画大スター市川右太衛門


上記の”「あばれ大名」の内容の現実と創作部分”について少し触れてみましょう。
鈴木兵吾は、現在ではほぼ存在していない”時代劇専門の脚本家”として活躍しました。松竹と東映の2社を中心に100作近い時代劇・映画を中心に脚本を書いています。東映の前身の東横映画から社名を変更した翌年の1953年から東映と関わりを持ち出しますが、その後も1958年までは松竹がメインで活動しています。1950年代後半に松竹の時代劇が衰退していきますが、鈴木兵吾もその流れを受けているのか、1958年から東映がメインになっています。戦後の市川右太衛門と深い関わりがある脚本家です。右太衛門では”旗本退屈男シリーズ”に4作、”大名シリーズ”に3作などの脚本を担当しています。
鈴木兵吾はテレビドラマの脚本も手がけています。数多くの作品で名前を観ていますが、テレビでは映画ほどは活躍していません。
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2015/07/20 18:06 | 超大物俳優COMMENT(1)TRACKBACK(0)  

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