「激震の映画秘話」戦火に身を投じた現代劇の名匠と歴代1位のオールスター映画の交差


歴代の数多くの映画関係者・監督や俳優などを把握していますが、時代劇から現代劇、また現代劇から時代劇に活躍の場を転向した映画関係者たちがいます。現在は時代劇作品が1960年代の中盤から急激に激減したため、時代劇から現代劇、また現代劇から時代劇などはほぼありえないことです。時代劇で活躍した者が映画会社の移籍をきっかけに現代劇に転向するケース、活躍できずに時代劇に転向して大成した俳優もいます。今回はそうした名匠の話が出てきます。

前回の記事⇒主演映画100作以上の4大スターが豪華競演を配役、戦時下のオールスターに集結す

ある意味で巨匠である牛原虚彦と空前絶後のオールスター「維新の曲」


維新の曲」(1942)は大映オールスターキャストです。アメリカのような主演数が少ない俳優のスターとはレベルやケタが違います。この映画の当時の時点で主演100作俳優7名で時代劇4大スター+3スター(阪東妻三郎片岡千恵蔵市川右太衛門嵐寛寿郎羅門光三郎阿部九州男琴糸路)が出演の空前絶後なキャスティングです。細かく書いたら長くなるので避けますが、のちではなく、この映画の時点で主演映画100作以上が7名です。←ここが重要です。主演映画100作以上が7名は確認してる限りではこの「維新の曲」以外には日本にも海外にも歴代に1作もないと考えられます。

この「維新の曲」の脚本は歴代最多の300作ほどの映画脚本の担当作があり、400作以上のともいわれる時代劇専門の大脚本家・八尋不二、時代劇で本当の意味で数多くの代表作がある歴代上位の超大物脚本家です。監督は松竹蒲田の中心監督の一人としても活躍した名匠・牛原虚彦です。この監督は松竹時代の現代劇俳優の鈴木伝明(伝=傳)や勝見庸太郎、自分の製作会社である高田プロ時代の現代劇スターの高田稔など、幾名かの現代劇スターとのコンビなどでも知られています。牛原虚彦の松竹蒲田時代は田中絹代などの数多くの名女優とのコンビもありますが、木下恵介吉村公三郎などの巨匠監督を生み出した名匠・島津保次郎と競り合った痕跡があります。さまざまな実積があることから牛原虚彦はある意味で巨匠ともいえるのかも知れません。

市川右太衛門×牛原虚彦のあまりにも短命、たった4年間のコンビ


この「維新の曲」(1942)は牛原虚彦が新興京都時代に時代劇監督をしていた流れで大映の創立時にも監督しています。松竹蒲田時代の現代劇監督時代に多数の痕跡が評価されて、大映第1回作品のオールスター作品「維新の曲」の監督を任されています。

牛原虚彦は大映以前、松竹を出てからは1937年に現代劇の映画スター・高田稔(*このころの現代劇のスターはさまざまな面でこのころの時代劇スターには劣る)の高田プロから新興京都に移籍して、新興京都と大映の創立時に10作以上の時代劇作品を監督しています。牛原虚彦の監督生涯の中で時代劇監督時代が短く、期間は1937年~1944年の約7年間です。この短い時代劇監督時代に一番多くコンビを組んだ俳優が市川右太衛門となり、さらにすべてのコンビ作が新興京都(新興キネマ)在籍時代の1937年~1941年のたった4年間となります。あまりにも短いたった4年間のだけのコンビでした。この4年のコンビ解消の理由には戦時下と終戦が関わっています。戦争中だったからこそのコンビであり、戦争が終われば戦中とは激変した世の中となったため、解消は必然でした。

市川右太衛門×牛原虚彦の全コンビ作
「タイトル」 (公開年数) 主な共演
南風薩摩歌」(1937) 山田五十鈴、浅香新八郎、梅村蓉子
旗本伝法 竜の巻」(1937) 鈴木澄子、浅香新八郎
旗本伝法 虎の巻」(1937) 鈴木澄子、浅香新八郎
長脇差団十郎」(1939) 河原崎権十郎、真山くみ子
旗岡巡査」(1940) 高山広子、伴淳三郎、浅香新八郎、森光子
雲雀は空に」(1941) 高山広子、市川男女之助
男の火華 新門辰五郎」(1941) 河津清三郎、山路ふみ子、月形龍之介

7作の中でも注目しているのが「旗岡巡査」です。時代劇と現代劇の要素があるレア作品で、時代の変化で幕末時代の藩士が明治になり、巡査になる役を右太衛門が演じています。
戦前や戦中作品は戦火で焼けてしまい商品化されている数少ない名匠・牛原虚彦の作品ですが、少ない商品化の遺作の「虹男」です

牛原虚彦は生涯で100作強の監督作を残していますが、90作を越えた晩年の代表作が「維新の曲」(1942)です。息子が戦後の現代劇メインの日活でやそこそこな活躍した牛原陽一ですが、父親の方が圧倒的な痕跡をしています。牛原虚彦のコンビ作があることも市川右太衛門の俳優としての痕跡の一つになります。

牛原虚彦は現代劇監督としては1921年から1936年、1946年~1949年が活動期間なっています。戦後の1946年から時代劇をやめて、現代劇の監督として大映で再起を踏み出しますが、戦後の新しい時代に対応できなかったため、軌道に乗らずに小林桂樹が主演した「虹男」(1949)が最後の監督作となっています。
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2015/09/23 20:47 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

海外はゼロ!主演映画100作以上の4大スターが豪華競演を配役、戦時下のオールスターに集結す


今回でこの「映画道を極める一直線女子」は600記事となります。記念するほどのことではないと思いますが、今後も精進していきます。さて、強烈な印象やイメージは時間が経過しても消えません。あるいは時間が経過することで高くなることさえなるかもしれません。戦時下に作られた時代劇作品が存在しています。戦時下に作られた映画は現代劇の戦争映画だけでは断じてありません。(*600は下書き含めると)

前回の記事⇒映画の歴代主演スターとしての苦しみと闘争の果てに下した苦渋の決断

主演映画100作以上の大スターが4名が豪華競演、50作が10名の超豪華な配役


1942年の日本軍は5月1日にビルマのマンダレーを占領しています。5月7日には日本軍が東南アジア全域を制覇して米軍を追い込み、コレヒドール島を降伏させています。この日本軍の活動した翌週の1942年の5月14日に公開されたのが今回で取り上げる映画です。「維新の曲」です。

「維新の曲」は幕末の動乱の重要人物にスポットを当てた幕末時代劇のオールスター作品です。「維新の曲」は数年前にも少し取り上げたことがあります。阪東妻三郎の坂本龍馬を主演の一人とした作品です。阪妻は1928年などと、この作品にて坂本龍馬を4作で演じています。片岡千恵蔵は西郷吉之助(のちの西郷隆盛)で出演し、千恵蔵はこれが3作目の西郷となっています。嵐寛寿郎の徳川慶喜、市川右太衛門の桂小五郎はこの作品のみで、4大スターがメインを勤めています。この4名(阪東妻三郎片岡千恵蔵嵐寛寿郎市川右太衛門)のすべてが1942年の「維新の曲」の時点で、通産の主演映画数が130作以上を越しています。

この4名を中心に大映の前身の映画会社のひとつの大都映画のトップスターとして活躍した阿部九州男の近藤勇や直木三十五の原作の「南国太平記シリーズ」などの大きな代表作がある羅門光三郎が中岡慎太郎、津川雅彦長門裕之の父で中規模な時代劇スターとして活躍した沢村国太郎が松平容保役は、阪妻や千恵蔵の後輩に該当し、日活で2番手スターとして活躍した尾上菊太郎が吉田稔麿、新興キネマの時代劇で活躍した大友柳太朗(当時・郎)が佐々木唯三郎など、超豪華な配役となっています。
戦時下の日本映画―人々は国策映画を観たか

ほとんど出番のない女優陣も豪華なのがオールスターの特徴です。B級が多いとはいえ、戦前だけで映画出演が脅威の300作を越した映画スター琴糸路片岡千恵蔵とも共演数が多いスター女優・市川春代常盤操子市川右太衛門と共演数が多くある高山広子、さまざまな作品で活躍した戦前のスター・名女優の梅村蓉子の競演も豪華なところです。1942年の「維新の曲」の時点で(ヒーロー、ヒロイン含めて)50作以上のスター俳優が10名ほど、有名俳優は52名ほどとなります。内訳は130作以上の主演映画がある4大スターと主演100作が3名(次の記事に表記)です。全部で主演50作以上は10名ほど、名脇役が20名以上で、まさにオールスターといえるでしょう。
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2015/09/15 19:36 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

映画の歴代主演スターとしての苦しみと闘争の果てに下した苦渋の決断


まさに現代ではありえない映画界の激動の中を走り抜けてきたのは、戦前からの歴代の映画俳優たちです。市川右太衛門長谷川一夫とは前回に書いているとおり、1932年「忠臣蔵 前篇 赤穂京の巻」で初共演していますが、前回にも書いている「維新の曲」(1942)にて、市川右太衛門片岡千恵蔵嵐寛寿郎阪東妻三郎と初共演を果たしています。4名一度に初共演、しかも歴代上位の映画スター4名がです。これは大きな映画史に残る事件でした。

前回の記事⇒激動の戦時下に映画主演150作を突破した超大スターの波乱万丈の非常事態

市川右太衛門大河内伝次郎との初共演は芸歴32年目に実る


市川右太衛門が残る一人(時代劇6大俳優、または6大スターにおいて)の大河内伝次郎との初共演は芸歴30年を越してからになっています。東映の1957年「魔の紅蜥蝪」(監督・深田金之助)でこの二人は初共演を果たしています。このとき市川右太衛門大河内伝次郎はともに映画俳優歴が32年目であり、右太衛門は主演スターを維持していますが、大河内は助演俳優です。

時代を戦前に戻しますが、大河内伝次郎は戦前から助演も多少多めながらも、数多くの代表作に恵まれています。主演で5度以上演じている役は「忠治旅日記シリーズ」などの国定忠治や丹下左膳と2役のシリーズ該当も存在している「大岡政談モノ」の大岡越前守、「鼠小僧モノ」の鼠小僧次郎吉や「忠臣蔵モノ(本伝・関連作)」の大石蔵之助などです。そして反逆のヒーロー丹下左膳を16作で演じた「丹下左膳シリーズ」(主演・助演も含む)となります。時代劇の父・時代劇の巨匠、伊藤大輔との名コンビは日本映画の120年の歴史の中でも上位に入る30作近くに上ります。

大河内伝次郎嵐寛寿郎の主演に、歌舞伎俳優を休止して、期間限定で時代劇映画スターとして活躍した大谷友右衛門(のちの四代目・中村雀右衞門)は生涯で20作ほどの主演作を有しています。数少ない3名の共演は貴重な作品です。大河内伝次郎は生涯で150作ほどの主演作がありますが、この「剣侠江戸紫」(1954)は最晩年の主演映画のひとつとなります。


大河内伝次郎・歴代主演スターとしての苦しみと闘争の果てに下した苦渋の決断


市川右太衛門をベースに記事は進行していますが、さらに大河内伝次郎にスポットを当ててみます。大河内伝次郎は1950年代になると新しい代表作や演目作やシリーズに恵まれず、人気や需要が急速に低迷し、準主役や助演が多くなります。そんな低迷期に戦前からの一番の当たり役、最後の丹下左膳となる「丹下左膳(1953)」と「丹下左膳」(共にマキノ雅弘が監督、1953年)が主演で製作されていますが、主演の最晩年作の2作となっています。主演スターの彼にとっては苦しい時期だったのだと思われます。

1940年代は稲垣浩黒澤明などの有名監督の作品には出演や主演したものの、主演スターとしてだけではなく、助演俳優として評価されてしまいます。このころの戦中には主演で戦争映画の代表作もあります。しかし1950年代になるとさらに主演数は激減していきます。1950年代といえば、阪東妻三郎が1953年に亡くなります。これは大河内や他の映画スターのとっても大きな衝撃でした。阪東妻三郎は晩年の1945年以降の戦後は主演数や代表作が激減し、映画俳優として比較的に苦しんで亡くなっています。大河内にとっての戦後は主演スターとして悩み苦しんだ部分が多いものでした。その証拠に存命の他の4名(片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫嵐寛寿郎)との戦後の主演数や代表作の差が大きく開いていきます。

大河内伝次郎は市川右太衛門と初共演を果たした東映の時代劇映画「魔の紅蜥蝪」(1957)に出演しているころは、主役俳優を完全に退いています。大映から東映に移籍しての大きな決断だったのです。歴代上位の映画スターが主演から助演にまわされる俳優の気持ちは心ぐるしいものであったことに違いはありません。
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2015/09/06 18:46 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

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