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歴代の名製作者の閉ざされたサビ鍵扉をこじ開けたら、国民的大作家がいた




日本映画の歴史の奥底に閉ざされた、深き闇のサビついて外せない扉へ真実の鍵を差し込んでいく。大げさかもしれませんがつっこんでいきます。「歴代の名製作者の閉ざされたサビ鍵扉をこじ開けたら、国民的大作家がいた」とは、


前回⇒マスコミが放置し続ける”マキノ省三賞の大物映画製作者”、歴代の大人物たちとの軌跡と奇跡


歴代の名企画者・玉木潤一郎と東映最大の黄金期の形成




玉木潤一郎は、1952年から1964年まで12年間を中心に東映の名製作者・名企画者として、世界で3名だけの映画主演300作の片岡千恵蔵、市川右太門の超大俳優の両御大とコンビを組んで、数十作も及ぶ、数多くのヒット作や名作の形成に大きく貢献した人物です。東映の最大の観客動員数や俳優陣などの黄金期(1950年代、特に1957~1959)にも大きな貢献を果たしています。東映の監督だった巨匠・中島貞夫によると、東映は1959年が最大の観客動員だったとインタビュー番組で話しています。


玉木潤一郎というサビついた鍵にこびりつく俳優時代の始まり



玉木潤一郎にも俳優時代がありました。戦前の俳優時代が戦後の企画の製作者としての功績につながっていきます。。玉木潤一郎は、戦前に存在した映画会社・東亜キネマ(1923年~1932年)で俳優の履歴が確認できます。東亜キネマは日本最初の大巨匠・牧野省三が所長を数年のみ勤めた後、会社を離れたときが1925年です。牧野省三は映画に関する監督や所長、今でいうとプロデュース業、後輩の監督や俳優の発掘など、幅広い役職を同時期に兼任していました。

玉木潤一郎はこの大人物・牧野省三が会社を離れた直後に、1925年「河童妖行記」に映画に初めて出演している履歴が残されています。役名に河童の父親役と書かれており、ある程度の老け役を演じていたものと推測できます。「河童妖行記」は当時9歳の子役スターとして活動していた、松尾文人(まつおふみんど)が子供の河童役の主演映画でした。


玉木潤一郎の俳優時代と国民的大作家・吉川英治鳴門秘帖




玉木潤一郎は、俳優のデビュー当時にすれ違った牧野省三の映画会社・マキノプロダクションの映画に出演を果たします。それは市川右太衛門から嵐寛寿郎に主演がリレーしたことでも知られる、「鳴門秘帖シリーズ」(1926~1927)であり、代表作の一つと言えます。時代劇映画「鳴門秘帖シリーズ」は”宮本武蔵”で世界的に知られるの小説家・吉川英治の数多い代表作の一つです。


鳴門秘帖シリーズ 製作=マキノプロダクション(日本最初の大巨匠・牧野省三の映画会社)
<公開年「タイトル」>     <役名・主演>        <玉木潤一郎の役柄>
1926 「鳴門秘帖 第一篇」  法月弦之丞 ・市川右太衛門 侍乳の多市
1926 「鳴門秘帖 第二篇」  法月弦之丞 ・市川右太衛門 侍乳の多市
1927 「鳴門秘帖 第三篇」   法月弦之丞 ・市川右太衛門 侍乳の多市
1927 「鳴門秘帖 第四篇」   法月弦之丞 ・嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎) 侍乳の多市
1927 「鳴門秘帖 第五篇」  法月弦之丞 ・嵐長三郎    侍乳の多市
1927 「鳴門秘帖 第六篇」  法月弦之丞 ・嵐長三郎    侍乳の多市
1927 「鳴門秘帖 最終篇」   法月弦之丞 ・嵐長三郎    侍乳の多市


玉木潤一郎は、”侍乳の多市”という役柄で助演で7作の全ての出演しているとされています。残念ながら細かい部分がデータが存在していませんが、出演していたことは確かのようです。


3大スター・阪東妻三郎市川右太衛門、月形龍之介の第1回主演作を監督した伝説の名匠・沼田紅緑




「鳴門秘帖」は牧野省三の下で時代劇映画のサイレント期に活躍した名監督の一人・沼田紅緑が1~3作目を手がけています。

沼田紅緑(ぬまたこうろく)は、日本映画の歴代を代表する3大スター・阪東妻三郎市川右太衛門、月形龍之介のそれぞれの第1回主演作を1923年から1925年の期間内に手がけたことでも知られています。月形龍之介は通産では助演が多いですが、戦前は主演が90作ほどの主演の大スターです。

1910年代の中盤から後半にかけて、日本最初の映画の大スター・尾上松之助の主演作を8作以上も手がけた経歴が残されており、これも事実であれば実積といえます。沼田紅緑は通産で90作ほどのサイレント映画の監督を手がけて、1927年に35歳で急逝しています。その後10年ほど長く生きていれば、巨匠といわれる存在になっていた可能性があり、将来が有望な人物の早い死でした。

世界3名だけの主演300作に到達した日本映画で上位の大スター・市川右太衛門は、”自分の映画演技の形成に大きく関与した重要な人物”が沼田紅緑だと話していたと言われています。主演デビューを果たした頃の市川右太衛門は、沼田紅緑と10作以上のコンビを形成(1925年から1927年)していました。


国民的大作家・吉川英治の2大代表作の鳴門秘帖




国民的大作家・吉川英治の「鳴門秘帖」は、虚無僧姿に身を包んで役目を遂行する主人公の隠密の法月弦之丞(のりづき げんのじょう)の活躍に恋愛の要素を交えた時代小説です。恋を取り入れた内容は同作者の大衆小説の代表的作品・宮本武蔵にもつながっていきます。”江戸時代の中期の阿波”を舞台に多彩な身分の人々を描いた戦いを描いています。

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↑↑残念ながら戦後の長谷川一夫の主演、衣笠貞之助による監督の
1957年「鳴門秘帖」(大映)のみしか、商品化はされていません。
戦後の市川右太衛門が主演した1954年「鳴門秘帖」(前後作で東映)は商品化されていませんが、
鶴田浩二が主演した1961年「鳴門秘帖」と「鳴門秘帖 完結篇」の前後作は録画しています。


国民的大作家・吉川英治の2大代表作の鳴門秘帖②




鳴門秘帖は戦前の大衆小説の代表的作品にも位置づけられ、吉川英治の原作の中でも、絶大な人気があったといわれ、その証拠として鳴門秘帖は戦前と戦後を通じて、最低でも1926~1961までの35年間で21作の映画、数度のテレビ時代劇を含めると1926~1990年の間で映像化されてます。また、同様に吉川英治の”宮本武蔵”も総集編を含めて、最低でも21作の映画が存在しています。同一作者の二つの原作で21作以上の映画(鳴門秘帖と宮本武蔵)が存在している作者は、吉川英治の他に誰もいません。

俳優時代の玉木潤一郎は、この歴代でも著名な大衆作品「鳴門秘帖」の映像化に関与していた事実がありました。

吉川英治の裏に切り込む↓↓
「歴代の名製作者の閉ざされたサビ鍵扉をこじ開けたら、国民的大作家がいた」の裏側

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2016/11/18 18:20 | 邦画の探求COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

マスコミが放置し続ける”マキノ省三賞の大物映画製作者”、歴代の大人物たちとの軌跡と奇跡



裏ブログの方で取り上げたのでそ牧野省三賞と少し重要な人物を取り上げたいと思います。牧野省三賞は日本初の映画祭の京都映画祭の中で、映画界に貢献した1958年から功労者を評するために作られた賞です。1977年からスタートした日本アカデミー賞の前身といえるのが京都映画祭です。日本初の映画の生涯功労賞が牧野省三ともいえます。


こちらも機会があれば
前回⇒池波正太郎の初の時代劇映画・維新の篝火と若山富三郎の極道シリーズの奇跡のクロスオーバー
問題の裏⇒ヘンリー・フォンダやジョン・ウェインも登場、片岡千恵蔵、月形龍之介と日本アカデミー賞の前身の”牧野省三賞”の存在


本当に評価された初期のマキノ省三賞の受賞者




日本映画は欧米のように1958年の京都映画祭までは生涯を功労賞を与えることをほとんどしてきませんでした。ですが、ようやく重い腰を上げて生涯功労を表彰する場を作ったのがこのマキノ省三賞でした。賞を与えること=俳優や映画関係者のそのままの評価も無理があります。ですが、名前や活躍した事実を後世に残すためには致し方ない部分も存在しています。

マキノ省三は日本に映画の定着や日本初の巨匠として数多くの功績を残した大人物でした。当然ながら、一言で説明できるような現代に活動しているレベルの軽い人物ではありません。これも何かの流れや縁であり、気になる点を中心に取り上げていきます。


<マキノ省三賞の受賞者>
・回と受賞年  ・受賞者  ・部門
-----------------------------------------
第1回(1958) 片岡千恵蔵 映画俳優
                 (映画主演310作以上、戦前と戦後の両方で邦画や時代劇を牽引、
                 数多くの題材で成功、影響も多大、シリーズ作、当たり役、記録、主な主演の
                 代表作は歴代1位150本を越し、総合的に日本の映画俳優の歴代トップ)
第2回(1959) 玉木潤一郎 映画製作者
                 (?)
第3回(1960) 月形龍之介 映画俳優
                 (映画500作、主演は110作強、助演と戦後を通じて数多くの大スターを助演で支え、
                 主演でも活躍、助演で有名な役柄を主に何度も多数で演じる)
第4回(1961) 市川右太衛門 映画俳優
                 (映画主演300作を上回る歴代上位の映画スター、戦後も千恵蔵と戦後の
                 邦画最大の黄金期に大きく貢献、主な主演の代表作は100作以下)
第5回(1962) 鈴木晰也 映画製作者
                 (?)
第6回(1963) 伊藤大輔 映画監督
                 (剣戟映画から時代劇の形成に大きく貢献、後世への多大な影響、基本を形成、
                 さらに大河内との名コンビで特に戦前は数多くの代表作がある)
第7回(1964) 内田吐夢 映画監督
                 (戦前は日活の現代劇名監督、戦後は千恵蔵、錦之助と東映の時代劇などで
                 独自な美学を詰め込んだ多数の名作を残した)
-----------------------------------------

上記のこの(?)が付く二人に関して深めに浸水していきます。



日本映画界と忘れ去られる”牧野省三賞の大物映画製作者・玉木潤一郎




上記の牧野省三賞の受賞者を見てもらうだけでもわかるとおり、片岡千恵蔵月形龍之介市川右太衛門伊藤大輔内田吐夢の5名は超大物であり、説明するまでもない人物ですが、玉木潤一郎鈴木晰也は世の中からその存在自体が忘れ去られようとしています。それもあるので少し掘り下げてみようと思います。

日本映画の発展に大きく貢献した人物に与える賞が牧野省三賞でしたが、初期に受賞した人物の中にはあまり知られていない人物が居ます。玉木潤一郎鈴木晰也の存在です。特に玉木潤一郎という人物は大きな存在でした。


玉木潤一郎が俳優時代に日本映画の個性を形成した超大物たちとの共演歴




玉木潤一郎は、日本映画界の1950年代の11億人を越したときもあった、最大の黄金期の功労者の一人です。特に片岡千恵蔵と戦前から36年にわたって、盟友としても知られ、同時に大きく縁がある映画人生でした。当時は現代のようにまだまだ高齢化社会ではなく、この36年という途方もない数字は驚異的でした。


玉木潤一郎の戦前は、脇役や端役の俳優としてデータが現存しており、1930年代には日本歴代上位の映画スターにまで到達していた、片岡千恵蔵と知り合いだったと考えられます。玉木潤一郎は片岡千恵蔵と同じく、1920年代の後半にマキノ省三関連の映画会社で俳優として活躍した時期があり、のちの歴代上位の映画スター・市川右太衛門や嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎)、時代劇4巨匠に数えられる大監督・マキノ正唯(のちのマキノ雅弘)とも俳優時代に共演しています。


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晩年のマキノ省三の監督作。マキノ省三は時代劇6大スターの出演作をほとんど監督せずに逝去しましたが、この「百万両秘聞」(1927)は時代劇6大スターの中でも数少ない監督作に該当します。嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎)を主演に起用しています。嵐寛寿郎「鞍馬天狗シリーズ」は通産で40作強が作られましたが、この作品の公開時はまだ1作のみでした。

裏⇒「マスコミが放置し続ける”マキノ省三賞の大物映画製作者”、歴代の大人物たちとの軌跡と奇跡」の裏は文化勲章?!できるだけやさしい内容を心がけています。


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2016/11/07 20:19 | 邦画の探求COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

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