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忘去名優武井龍三「映画の日」中央大会の受賞が物語る映画人高評とナゾ戦後 伝説の殺陣師足立伶二郎の消失映画数百本




忘去名優武井龍三「映画の日」中央大会の受賞が物語る映画人高評とナゾ戦後 伝説の殺陣師足立伶二郎の消失映画数百本





武井龍三は現在からすると忘れ去られた名優の一人です。

忘れ去られた理由の一つはメディアの伝える人物の幅の狭さだけではなく、

戦後の日本映画最盛期の映画に出演していなかったことも大きいわけですが、
それだけで忘れ去るべき理由なのでしょうか、

名優の戦前の活動の中には、映画俳優を経た映画大製作者の玉木潤一郎の陰もちらつきます。


120年を越す映画の普遍性の中で武井龍三の生き様は何を伝え残したのしょうか




前回記事 武田邦彦に問え!!謎のアイヌ映画と日本列島存亡危機百人斬 大映画製作者玉木潤一郎のアイヌの娘と喧嘩買兵衛



武井龍三 忘去名優





現在あまり知られざる名優の武井龍三の助演代表作3本は七剣聖の3名の主演作




忘去名優こと、現在忘れ去られた名優にスポットを当ててみることにしました。マスコミがやらない、こうした功労者たちを現在へ伝えていくことも重要だと考えています。



武井龍三は、125本強(現存含む)の映画へ出演しました。当時、戦後の最盛期を含めるとそこまで多いとはいえない数ですが、これは戦前のみです。本数を伸ばしやすい脇役よりは、相手役や比較的上位の主要が大半だったため、この事実を知ると十分に出演していたと捉えることができます。いわゆる主演を立てる相手役のスター俳優だったともいえます。

片岡千恵蔵や阪東妻三郎はほぼ主演で戦前のみ現存含むと200本を越す映画(現存含む)に出演していますが、彼らは歴代上位の超大俳優、彼らと比較するだけがけして評価ではありません。この部分は難しいところです。


片岡千恵蔵 阪東妻三郎




前回記事でも少し取り上げていますが、伝説の映画製作会社の千恵プロの記念すべき1本目1本目の1928年の名作『天下太平記』(監督は稲垣浩、原作と脚本は伊丹万作、撮影は石本秀雄)へ、片岡千恵蔵の相手役の2番手出演、


さらに市川右太衛門の右太プロ時代は『旗本退屈男(1930)』の旗本退屈男シリーズの通算30本を越す、記念すべき1本目へ出演(上位5番手のメインキャスト圏内、4番手表記といえる役柄)、武井龍三は特にこの2本において、映画史へ名前を刻んでいます。

天下太平記 稲垣浩 伊丹万作 石本秀雄




また、月形龍之介の戦前の代表作の一つ、マキノ時代の1927年「砂絵呪縛」の現存版(第一篇と第二篇の現存を元に製作されたバージョン、事実上の総集編)に彼の姿を確認しています。現存している場面に多く出演していた影響がありそうですが、主演に次ぐ3番手級の出番量に驚きました。この3本が武井の代表作、特に大きなものといえそうです。


月形龍之介 砂絵呪縛


砂絵呪縛 [VHS]
砂絵呪縛」はVHS版はありますが、DVD版はリリースされていないようです。これはマツダ映画社版の活弁解説版です。

マツダ映画社

千恵蔵、右太衛門、月形、戦後の東映を連想させる3名と縁がある代表作たちです。この3名は7大剣戟俳優を表する七剣聖へも数えられます。実は記事の最後のほうでも登場しますが、この縁が戦後の彼の活動に影響や縁を与えていた可能性もあります。


七剣聖


武井龍三の主演の代表作は特にありませんでした。いわゆる鳥人スターともいわれたとのエピソードもありますが、これのみで主演として成功したと判断するのは非常に困難です。



その証拠は、最初の主演の1925年『奇傑鬼鹿毛 第一篇』から数本連続で途絶え、その後もぼつぼつ主演があるのみです。上記でも紹介していますが、単独主演は上手くいかず、主要系俳優(主演を支える上位数選)ということがここからもわかりますし、通算の主演は10本強に留まっています。




鳥人スター 奇傑鬼鹿毛 第一篇


武井は主演では成功は収めませんでしたが、2番の相手役や数番手の主要、助演では20本を越す代表的作品があります。


1927年「砂絵呪縛」(現存版)は、武井の出番が2番手級ですが、4,5番手的な中根龍太郎の演技のほうが目立ち、しっかりと個性を定着されています。残念ながら「砂絵呪縛」の終篇jは残されていません。これは個人的な印象なので、観る人によって異なると思いますが、中根龍太郎は三波伸介と似た良い意味のふてぶてしさを感じます。

中根龍太郎も戦前の時代劇映画で活躍した名優の一人です。


中根龍太郎



笑点(1982)三波伸介 最期の大喜利、最期のなんでもコーナー

笑点にも出演していた三波伸介の姿を伝える貴重な映像


笑点





捕物時代劇の名キャラクターあばたの敬四郎に浮かぶ武井の姿






三波伸介というと、俳優活動も行っていました。中村吉右衛門(2代目)の右門捕物帖(テレビドラマ、1969~1970にかけて26話、『右門捕物帖(1969)』)、東映映画の大友柳太朗版では、大名優の進藤英太郎が映画の当たり役とした同心役の村上敬四郎こと、あばたの敬四郎を演じました。

銭形平次などと競う、歴代上位の捕物時代劇の代名詞の右門捕物帖、村上敬四郎は主人公の近藤右門こと、むっつり右門のライバルだが、時に協力者としても描かれます。



中村吉右衛門 右門捕物帖 右門捕物帖(1969) 大友柳太朗 進藤英太郎 村上敬四郎 あばたの敬四郎



この三波伸介の村上敬四郎役が現存する1927年「砂絵呪縛」(現存版)の中根龍太郎を思わせる部分を、あくまで個人的レベルですが、似ていると感じました、いわゆるがたいが良い俳優同士です。

村上敬四郎という役は、戦前からがたいが良い俳優が演じてきました。主題歌は三波春夫の「御存じ右門ここに居る」



残念ながら三波春夫が主題歌ですが、ユーチューブ動画はありませんし、アマゾンにも商品もありません。録画はしていますが、アップロードはしないため、機会があればドラマを観ていただくしかありません。ドラマは全話現存しており、10年ほど前はCS放送のファミリー劇場などで放送していました。


三波春夫 御存じ右門ここに居る ファミリー劇場




アンデルセン物語 [DVD]

三波伸介は映画20本近くに出演しましたが、1968年の東映長編アニメーション『アンデルセン物語』へは声優で出演しています。5,6番手、助演です。

子役としても活動経験がある有名声優の藤田淑子が主演のアンデルセンを演じ、この映画の監督の矢吹公郎といえばテレビアニメ『一休さん』(アンデルセン物語と同じ藤田淑子主演)もありますが、『ドロロンえん魔くん』(野沢雅子が主役)の印象も強い人物です。




アンデルセン物語 藤田淑子 矢吹公郎


ドロロンえん魔くんOP/ED
名OP、EDです。


一休さん ドロロンえん魔くん 野沢雅子






現実は非常に厳しかった。千恵プロに影響されて興した映画会社の武井プロは3本のみの失敗





1927年「砂絵呪縛」(現存版)に戻りますが、個人的にはこの中根龍太郎と、名優の山本礼三郎(寛プロや千恵プロや日活、東宝の1960年代までの長期間で活躍、稲垣浩や黒澤明もお気に入りの助演俳優)も出演しており、個性を押し出す良い演技をしています。

月形龍之介は主演の演技(ふり幅の狭めの展開を主導する演技)をやっていますが、戦後の円熟姓と個性の定着を知っていると物足りない演技に思えてしまうため不思議です。それだけ名優ということでもあります。

*主役の演技というものは話の案内役になる場合があり、助演や脇役の様に自由度が抑えられ、演技で遊べない場合があります。月形の「砂絵呪縛」の主演の演技も現存する映画においては、この主演の演技に感じられます。


山本礼三郎 千恵プロ 武井プロ  黒澤明


武井龍三のことになりますが、彼はマキノ映画時代の共演者の千恵プロ(公式101本、現存含むと130本以上、スタープロダクション最多の代表作題材は20以上、武井が映画会社を稼動させたときは10本強を制作、最大手の日活側に高く評価されて、日活としては異例の提携を結ぶ)に影響されたとも考えられますが、映画会社の武井プロを興しました。

何故なら千恵プロへ10本ほど出演した後に、自分の製作会社を稼動させているためです。映画会社に成功した片岡千恵蔵から強い刺激を受けたといえます。



武井龍三プロダクションの製作映画
1929年『金剛呪文 前篇』
1929年『金剛呪文 後篇』
1929年『仇討双人録』


3本とも自身が主演も兼任していたと考えられます。



残念ながら映画制作は3本のみで失敗しています。大きな負債を抱えたと考えられ、その後のマキノ時代の共演者の右太衛門の映画会社へ専属の助演俳優として多数に出演できました。


戦後は東映の殺陣師だったという話も残されています。1963年に53歳で死去しているため、この付近まで活動していたと考えられます。






武井龍三の謎の戦後と「映画の日」中央大会の受賞が物語る映画人としての高い評価







1963年に開催された第8回「映画の日」中央大会で、映画業界に40年以上勤務した永年勤続功労章受章者として、助演の大名優の杉狂児や浦辺粂子などと表彰されています。当時の40年というのは平均寿命が現在よりもかなり短く、大病にかかるとなかなか治せない時代、この時代の40年は非常に高い評価だといえます。



武井の永年勤続功労章受賞の1963年と2020年の日本人の平均寿命の比較

1963年の男性は66歳、女性は72歳
2020年の男性は81歳(15歳上昇)、女性は87歳(15歳上昇)



*15歳上昇は1963と比較


男女共に、大幅に上昇しています。当時は40年ですが、現在でいう50年や55年に相当するともいえる、永年勤続功労章受章者です。




第8回「映画の日」中央大会 永年勤続功労章
杉狂児 浦辺粂子

日本人の平均寿命
 1963年の日本人の平均寿命 2020年の日本人の平均寿命



この受賞からも1963年まで殺陣師をしていたことがわかりますが、残念ながら当時に東映時代映画に彼の殺陣師としての名前はクレジットされていません。殺陣師の大物、殺陣師のナンバーワンとも言われる東映剣会の創始者の足立伶二郎の名前は膨大な数が確認できます。



この見出しは”謎の戦後”とさせていただいていますが、これは活動の詳細が不明であるという部分からです。当時は現代ほど、特に裏方となると、さらに詳細を残さない場合も多々ありました。


殺陣師といっても表記なし含めると多数が存在した時代、日本の映画人初の常設の生涯功労賞の牧野省三賞などからすると、そこまで大きな賞とはいえませんが、表彰されるほどであることから、武井は評価された人物だったことがわかります。


戦前の俳優時代の実積が受賞の対象期間だったとは考えられず、当時の東映剣会のトップの伝説の殺陣師としても知られる足立伶二郎に次ぐ、立場の重要な人物だったのかもしれません。


足立伶二郎 東映剣会

日本映画人初の常設の生涯功労賞 牧野省三賞






マスコミは調べて伝えるべき足立伶二郎の大功績たち





武井龍三と東映剣会で関わりがあったと考えられる大人物に迫ります。

足立伶二郎東映剣会の創立だけではなく、上野隆三(映画内表記は1965~)、三好郁夫(映画内表記は1968~)など、多くの後輩を育て、数百本といわれる時代劇映画の殺陣を務めました。この本数は映画歴代最多だと考えられます。全てを確認しているわけではありませんが、最低でも映画200本は越していたようです。


上野隆三 三好郁夫



戦前からだと片岡千恵蔵、市川右太衛門、嵐寛寿郎、阪東妻三郎の四大スター、さらに大河内傳次郎、月形龍之介など、戦後の中村錦之助(萬屋錦之介)、大川橋蔵、東千代之介、大友柳太朗、美空ひばり、伏見扇太郎などの主演俳優を手掛け

代表的作品は数多くありますが、千恵蔵の宮本武蔵や大菩薩峠、忠臣蔵(赤穂浪士も含む)、遠山の金さん、清水の次郎長、鴛鴦歌合戦、嵐寛の鞍馬天狗、右太衛門の旗本退屈男、忠臣蔵(赤穂浪士)も上位の代表作です。殺陣師最多の100本を越す有名作を手掛けました。長谷川一夫を除く時代劇六大スターの全てと多作で関与しています。



阪東妻三郎 大河内傳次郎 中村錦之助 萬屋錦之介 大川橋蔵 東千代之介 大友柳太朗 美空ひばり 伏見扇太郎




東映への移籍組の高田浩吉、近衛十四郎、黒川弥太郎など、若手の里見浩太郎(里見浩太朗)、松方弘樹、北大路欣也、中村賀津雄(中村嘉葎雄)など、現代劇中心だが時代劇にも出演した鶴田浩二、高倉健、千葉真一、藤純子(富司純子)など幅広く関与しました。殺陣は時代劇だけではなく、千恵蔵の遠山の金さんなどの素手の立ち回りなども担当し、現代劇へも影響の流れを形成

*中村賀津雄は松竹から東映へ移籍、兄の錦之助と一部の映画でコンビ



剣戟を離れた現代劇においても、後輩たちの手を介して、その技術は任侠物や、やくざ物や「仁義なき戦いシリーズ」、岩下志麻などの「極道の妻たちシリーズ」、若山富三郎の「極道シリーズ」、北島三郎の「兄弟仁義シリーズ」などにも受け流されて大いに活用されています。時代劇はもちろん、現代劇の日本の映像美の個性にも大きく貢献しています。このことは意外と知らない方が多いかもしれません。


高田浩吉 近衛十四郎 黒川弥太郎 里見浩太郎 里見浩太朗 松方弘樹 北大路欣也 中村賀津雄 中村嘉葎雄 鶴田浩二 高倉健 千葉真一 藤純子 富司純子


まだまだ確認されていない実積が存在している人物です。素人レベルだと限界があるため、ぜひ映画系の作家やマスメディアが調べていただきたい人物です。

某データベースに彼の殺陣師(剣導、擬闘、擬斗の表記も有)ほんの一部しか、データは残されていません。また戦前の殺陣師は映画内のクレジットに名前さえ表記されていない作品が多数あったと考えられています。








足立伶二郎のデータが残されていない確認済みの一例 玉木・足立・武井の3名が繋がった瞬間







足立伶二郎のデータが残されていない確認済みの一例を紹介します。

片岡千恵蔵主演の「赤穂城三部作」1952年の『赤穂城』、『続赤穂城』、『女間者秘聞 赤穂浪士』の3本ともに、彼の名前が確認できます。




1953年映画パンフレット 女間者秘聞・赤穂浪士 片岡千恵蔵 小暮実千代 月形竜之介 大友柳太郎

小暮実千代の字が間違っており、小⇒木が正解で、木暮実千代です。

木暮実千代


戦後初の討ち入りが描かれた『女間者秘聞 赤穂浪士』にも表記の代表殺陣師として貢献、実はこの赤穂城3部作赤穂城は玉木潤一郎の初の製作者表記の映画です。

足立伶二郎が殺陣、そこに武井龍三は名前はありませんが、殺陣師として存在していたのか、戦後は東映の殺陣師だった記録はあり、第8回「映画の日」中央大会で、映画業界に40年以上勤務した永年勤続功労章受章者のレジェンド待遇を受けていたわけですが、残念ながらいつごろから在籍していたのか詳細は不明です。


この『赤穂城』が玉木、足立、武井の3名が繋がったかもしれない重要な瞬間です。




【東映公式】~伝説の殺陣技術集団~『東映剣会 vol.1』 【TOEI】東映京都俳優部サイドメニューvol.42
足立の名前も冒頭に登場します。



<引用>
昭和27年、日本映画黄金期の東映京都撮影所に於いて、殺陣師・足立伶二郎らを中心に殺陣技術の向上・発展と継承を目的に発足した殺陣技術集団、「東映剣会」。


とあります。

昭和27年は1952年です。日本の個性を残す、伝える。文化と経済は連携もしており、日本に発展や安定した経済のためにも非常に重要なことです。外国からしても日本の価値があるということになります。文化を維持することは経済力でもあり、安全保障にも繋がります。




赤穂城三部作 赤穂城 続赤穂城 女間者秘聞 赤穂浪士

出世太閤記 羽柴秀吉

GHQの検閲終了後の剣戟解禁



足立伶二郎の名前が公式に初めて登場する1938年『出世太閤記』(嵐寛寿郎の木下藤吉郎、羽柴秀吉が主演、監督稲垣浩、アラカンの単発代表作の一つ)の剣導の表記から、終戦の1945年までの間に少なくても数十本へ関与の疑いがあり、

さらに1952年のGHQの検閲終了後の剣戟解禁(日本は1945年に敗戦し、GHQから剣戟が規制されていた)は、年間10本級ペースが1960年代前半まで本数が存在していたことがわかります。




*この記事は、記事公開後に部分的なミスがわかり、修正を加えました。



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2022/02/15 17:45 | 邦画の探求COMMENT(3)TRACKBACK(0)  

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