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女優人生は女の橋、前期17年と後期17年のハーフ&ハーフの女

女優は渡らなければならない”女だけの橋”があるとしたら、橋には見えない境目があります。橋の向こう側と今いる側がそれです。その間、1969年に彼の死があるときに女優人生の境目である橋の中心を向こう側へ歩いていたことになります。そんなハーフ&ハーフの女が嵯峨三智子です。

嵯峨三智子は、主に1953~1970年までの17年間にわたり、映画俳優でした。当然ながらそれ以降も映画への出演さえも激減してしまい、数本に出演しているのみで、映画俳優としては1970年に終わっているわけです。

17年間で130本以上の映画に出ていましたが、のちの1971年から1988年までの17年間では数本へ急激な激減をしているためです。まさにハーフ&ハーフの女なのです。映画時代の17年以後の彼女は、舞台女優として地味めな女優人生を送っていました。テレビドラマにはほぼ出演せずに、女として、1969年に逝去した雷蔵の面影(映画の大スター市川雷蔵と映画14作でヒロイン役で共演)を背負い込んでのちの17年を生きていたのかもしれません。

*正確には雷蔵が死んだのは1969年なので16年目になりますが、その辺はほとんど半分半分ということで大目に見てください
前回に紹介した13本目の共演作の「眠狂四郎魔性剣」(眠狂四郎6作目)<1965>
また、嵯峨三智子の特徴は芸名であるといえます。嵯峨三智子は、映画デビューして最初の1年間は嵯峨美智子という芸名でした。美智子ってお名前は聞いたことありませんか?。現・天皇陛下の皇后である皇后・美智子さまのお名前と同じなのです。ですが、嵯峨が改名した1954年の当時には、のちの1959年にご成婚されて皇后・美智子となる方は、正田美智子でマスメディア的には有名ではありませんでした。ならばなぜ、芸名を変えたのか不思議に思います。単に画数の良い悪いの問題かもしれません。

嵯峨にとって意義がある出演作があります。大岡越前の活躍を描いた「大岡政談妖棋伝 地獄谷の対決」(1954)です。主演は、歌舞伎俳優と兼任で映画スターとしても30作以上に出演した7代目・大谷友右衛門(のちの4代目・中村雀右衛門、2012年没)、戦前からの時代劇の名匠・並木鏡太郎で映画化した作品で、初めての嵯峨三智子の名義で映画に出演を果たしています。実は「大岡政談妖棋伝 地獄谷の対決」は、前後作の続編なんです。前作の「大岡政談妖棋伝 白蝋の仮面」(1954)には、嵯峨の母親の山田五十鈴がヒロイン役で出演しています。数多くの異色作を送り出した異端な映画会社として知られる新東宝は意欲的な前後作の時代劇を多く制作していました。
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2014/09/08 17:08 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

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