映画界の大重鎮が大巨匠の息子に仕掛けた大陰謀



映画界の歴代を代表する大&名製作者・玉木潤一郎の俳優時代は、歴代上位の数多くの映画スターたちとの出会いにありました。こうした俳優たちとの出会いが戦後の日本映画最大の黄金期の到来を呼ぶことになることは、俳優時代からは知るよしもありませんでした。

前回の記事⇒8名の主演100本俳優の大作映画と年間観客動員10億人の超立役者

前々回の歴代の名製作者の閉ざされたサビ鍵扉をこじ開けたら、国民的大作家がいたに少し戻りますが、玉木潤一郎の俳優時代の映画出演の代表作の鳴門秘帖には続きがあります。



玉木潤一郎が参加していた鳴門秘帖シリーズの主演交代




吉川英治の大ヒットした大衆小説を元にしたヒット作鳴門秘帖は1篇から3篇までは市川右太衛門が主演でしたが、1927年「鳴門秘帖 第四篇」から法月弦之丞役は、嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎)に変更されます。何故変更されたのか、それが主演俳優に原因があるものと考えられます。

1篇から3篇の主演である市川右太衛門がデビューから多くの作品でコンビを組んできた、名匠・沼田紅緑が亡くなったこと市川右太衛門マキノプロダクションから独立して自分の映画製作会社”市川右太衛門プロダクション”を創立したため、主役は交代になったと考えられます。


鳴門秘帖シリーズ 製作=マキノプロダクション
<公開年「タイトル」>     <役名・主演>        <玉木潤一郎の役柄>
1926 「鳴門秘帖 第一篇」  法月弦之丞 ・市川右太衛門 侍乳の多市
1926 「鳴門秘帖 第二篇」  法月弦之丞 ・市川右太衛門 侍乳の多市
1927 「鳴門秘帖 第三篇」  法月弦之丞 ・市川右太衛門 侍乳の多市
嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎)に変更はこの部分↓↓
1927 「鳴門秘帖 第四篇」  法月弦之丞・嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎) 侍乳の多市
1927 「鳴門秘帖 第五篇」  法月弦之丞・嵐長三郎    侍乳の多市
1927 「鳴門秘帖 第六篇」  法月弦之丞・嵐長三郎    侍乳の多市
1927 「鳴門秘帖 最終篇」  法月弦之丞・嵐長三郎    侍乳の多市

マキノプロダクション牧野省三(別名義・マキノ省三など)が1925年から1929年までの短期間で、日本映画を背負う映画の大スター、のちの名脇役、のちの巨匠や多くの製作者を輩出した、当時の概念で大手に該当する映画制作会社



市川右太衛門と恩師の悲劇的別れと鳴門秘帖シリーズ




市川右太衛門の最後のシリーズ3作目「鳴門秘帖 第三篇」は1927年の2月に公開し、嵐寛寿郎が引き継いだシリーズ4作目「鳴門秘帖 第四篇」は1927年の5月の公開、この空白の3ヶ月に沼田紅緑の監督の休止や死、コンビ解消という出来事が続けてありました。

市川右太衛門プロダクションは1927年の4月に稼動を開始したため、「鳴門秘帖 第四篇」はその後に公開されたことになります。不思議なことに自分がそれまで主演していた、「鳴門秘帖シリーズ」が別の俳優で再始動していることを横目に見ながら、市川右太衛門はその作品や俳優のライバルとして、新たな道を突き進んでいったことになります。



戦後黄金期の東映で名コンビ・巨匠・松田定次玉木潤一郎の意外な出会い




玉木潤一郎はこの主役交代劇にも流されずに鳴門秘帖の全7作に「侍乳の多市」役で出演しているとされています。市川右太衛門が去ったマキノプロダクションの「鳴門秘帖 第四篇」から「鳴門秘帖 最終篇」 の4作は嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎)で作られましたが、スタッフの変更もありました。

4篇から牧野省三を支えた撮影者の重鎮・田中十三から松田定次に変更されました。松田定次・・・まさか、世界の映画界の歴史の中で、ナンバーワンのオールスター映画を25作以上を手がけた、あの大巨匠・松田定次、その人です。



日本映画の父・牧野省三が息子・松田定次に仕掛けた陰謀




「鳴門秘帖 第四篇」に撮影者で参加した頃の松田定次は監督の仕事を行う前であり、撮影者時代を経て監督になるための時期でした。5作以上の監督補佐を行いながら同時に10作以上の撮影をしていたのが、この1927年でした。この頃の松田定次の父・牧野省三は撮影から現場を学ばせて、のちに監督をさせようと考えていたことが伺い知れます。日本映画の父・牧野省三が松田定次に仕掛けた”良い意味での陰謀”だったのでしょう。



孔雀の光」で実現していた名匠・沼田紅緑、撮影・松田定次、主演・市川右太衛門




玉木潤一郎か少しそれますが、松田定次は撮影者としてマキノプロダクションで働きだした1925年から市川右太衛門の主演作を撮影しています。このころの撮影の代表作が主演・嵐寛寿郎の「鳴門秘帖 第四篇」から「鳴門秘帖 最終篇」 の4作と下記の主演・市川右太衛門「孔雀の光」の3部作です。この作品は市川右太衛門のデビュー2年目のヒットシリーズです。

公開 「タイトル」        ・監督   ・撮影   ・主演
1926「孔雀の光 前篇」    沼田紅緑 松田定次 市川右太衛門
1926「孔雀の光 第二篇」  沼田紅緑 松田定次 市川右太衛門
1926「孔雀の光 第三篇」  沼田紅緑 松田定次 市川右太衛門



市川右太衛門の恩人・沼田紅緑と日本映画最大の黄金期を牽引した大巨匠・松田定次




また、市川右太衛門の恩人としても知られる沼田紅緑は、松田定次にも影響を与えていました。それを示すのがコンビ作です。監督・沼田紅緑×撮影・松田定次は全部で8作のコンビを組んでいました。1925年から1928年の松田定次は撮影をこなしながら監督の勉強をしていた時期です。沼田紅緑は市川右太衛門の映画スターとしての形成に大きく関与しただけではなく、のちに東映ナンバーワンや歴代オールスター監督などの異名を持つ巨匠・松田定次の形成にも、影響を与えていたことが推測できます。


忠臣蔵 櫻花の巻・菊花の巻 [DVD]
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D) (2014-12-05)
売り上げランキング: 2,239
巨匠・松田定次の数多いオールスターの代表作の一つが、この1959年「忠臣蔵 桜花の巻 菊花の巻」でした。東映にとっても当時を象徴する大きな巨額で製作された超大作でした。

この映画が公開された1959年に映画会社・東映は”歴代で最大の観客動員数を記録し、大手6社(左から創立順の表記=日活、松竹、東宝、大映、新東宝、東映)の中でダントツ1位を記録”しました。この観客動員数は今も破られいませんが、1959年の2位は日活でした。そして「忠臣蔵 桜花の巻 菊花の巻」の企画者はなんと玉木潤一郎です。


裏側も大公開中⇒忠臣蔵映画に秘められた製作者の願い「大重鎮が大巨匠の息子に仕掛けた大陰謀」の裏

関連記事
日々探求の励みに⇒にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへにほんブログ村こちらもポチ⇒映画(全般) ブログランキングへ

  

2016/12/15 00:00 | 邦画の探求COMMENT(1)TRACKBACK(0)  

コメント

更新・・・

現在、ログインできない状況です。そのため更新が遅れてしまっています。FC2には困ったものです。

No:124 2016/12/27 19:36 | 愛子(本人) #- URL [ 編集 ]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 | BLOG TOP | 

ブログ