6番手11人目が大川橋蔵のワケ 最大のライバルと勝負の行方
前回は「戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数が途絶えた順番」を取り上げましたが、あえて外していたのですが、もう1人記録に到達した俳優がいます。
戦後を代表する日本の映画スター&東映を代表する時代劇スター大川橋蔵
それが大川橋蔵です。大川橋蔵は戦後を代表する日本の映画スター&東映を代表する時代劇スターの1人として活躍しました。1955年にデビューして、1955年から1967年まで13年連続主演1作以上を記録しました。13年間で110作強の映画に出演、9作が作られた『若さま侍捕物帖シリーズ』や『新吾十番勝負』や『新吾二十番勝負』、『新吾番外勝負』を含む9作の通称”新吾ものシリーズ”、『喧嘩道中』からはじまる股旅4作の『草間の半次郎シリーズ』、1時間弱の中篇映画『江戸三国志』3部作などを主に残しました。

『新吾十番勝負 完結篇』は新吾十番勝負シリーズ、新吾もの、新吾勝負もの事実上の4、または5作目に該当します。
その理由などは裏側に⇒裏側「6番手11人目が大川橋蔵のワケ 最大のライバルと勝負の行方」
単発映画の代表作では中村錦之助とダブル主演の『曽我兄弟 富士の夜襲』、『幽霊島の掟』、『幕末残酷物語』、テレビドラマの代表作の映画版『銭形平次(1967)』などの代表作がある大スターでした。映画主演の代表作は30作を越していおり、助演でも浅野内匠頭を演じた『赤穂浪士(1961)』など多くの大ヒット作や名作に出演し、大きく貢献しました。トータルの主演映画数は三船敏郎や渥美清らを上回る戦後20位の80作に到達しました。
1967年の『銭形平次(1967)』を最後に事実上の映画俳優を廃業し、テレビ時代劇の俳優として888話の銭形平次や数本の長篇時代劇のみが活動の場となりました。

曾我兄弟(または曽我兄弟の表記)は”曾我兄弟の仇討ち”としても知られる日本三大仇討ちに称される一つ、戦前から戦後に掛けて10度以上映像化されてきた曾我兄弟題材作、その東映版の大ヒット作『曽我兄弟 富士の夜襲』は大川橋蔵も出演していました。
大川橋蔵は6番手で11人目の俳優
大川橋蔵も「戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優」の1人でした。表記は11人目ですが、途切れた順は6番目になります。下記が大川橋蔵を追加した戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数が途絶えた順番です。
<戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数が途絶えた順番>
途絶えた年 俳優名 連続年数 連続年数の内訳
1961 長谷川一夫 12 1950~1961
1962 市川右太衛門 11 1952~1962
1963 中村錦之助 10 1954~1963
1963 美空ひばり 13 1951~1963
1963 片岡千恵蔵 14 1950~1963
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⇒1965 大川橋蔵 10 1956~1965
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1966 森繁久彌 12 1955~1966
1967 市川雷蔵 13 1955~1967
1968 勝新太郎 14 1955~1968
1970 小林旭 13 1958~1970
1972 鶴田浩二 12 1961~1972
意外なことに映画時代の大きなライバルであった中村錦之助と「戦後の10年連続以上の年間主演5作」で並んでおり、中村錦之助はデビューした1954から1963年で途絶えていますが、大川橋蔵はデビューは1955年の12月に『笛吹若武者』でデビューしてから、2年目の1956から1965年にかけての10年間であり、両者とも10年間の記録ですが、記録した年数が2年間ずれています。中村錦之助が1963年で主演5作が途絶えたことにも触れておきましょう。
テレビの普及で自宅で時代劇が観れるようになったことから、本数のニーズが低下したことも大きな部分ですが、内田吐夢とコンビを組んだ5部作の宮本武蔵も要因といえるでしょう。時間をかけて製作した作品であり、主演数が自然と減少しました。一方、ライバルだった大川橋蔵はそれに反して本数を撮る方向で活動したのが、この1964年と1965年だったということになります。大川橋蔵の10年連続主演5作以上が1965年まで続いた部分には個々の活動の違いも影響していました。
2005年に商品化されていたことに驚きましたが、大川橋蔵のデビュー作『笛吹若武者』は、ナンバーワン女優の美空ひばりといきなりの共演&ダブル主演でした。東映側から大川橋蔵への期待が高かったことがわかります。監督は大川橋蔵と映画時代の代表作の数本やテレビ時代劇『銭形平次』においても縁のあった巨匠・佐々木康でした。
大川橋蔵と最大の好敵手の中村錦之助と数と質、巨匠たちの勝負
中村錦之助の「戦後の10年連続以上の年間主演5作」が途絶えた1963年のその翌年1964、1965年も大川橋蔵は年間主演数5を維持していました。このときの二人を比べると二人の活動に変化が見られます。それが質と数です。大川橋蔵はこれまでどおり数の方向へ向かいましたが、中村錦之助は数よりも質の方向へシフトしたことが伺い知れます。
・大川橋蔵の1964年8作、1965年の5作
・中村錦之助の1964年3作、1965年の4作
<大川橋蔵の1964年と1965年>
1964年は新吾もの8作目や番外編に該当する『新吾番外勝負』、話題作『幕末残酷物語』が公開、『新吾番外勝負』は東映や日本映画の7年連続8億人に大きく貢献した大ヒットメーカーの巨匠・松田定次の東映時代で最後の代表作といえる作品でした。1965年は5作の主演がありましたが大きな代表作なかったと言わざる得ないところですが、、『大勝負』は日活で活躍した井上梅次を監督に招いて製作され、大川橋蔵、大友柳太朗と片岡千恵蔵の3大スターを軸に描いた野心作でした。
<中村錦之助の1964年と1965年>
1964年は4作目『宮本武蔵 一乗寺の決斗』、 田坂具隆の歴史文芸『鮫』、 巨匠・今井正の数少ない時代劇映画『仇討』、
1965年は山本周五郎の文芸時代劇の田坂具隆で映像化した『冷飯とおさんとちゃん』、完結編の5作目『宮本武蔵 巌流島の決斗』などの代表作がありました。
前年1963年の今井正×中村錦之助コンビの『武士道残酷物語』の大ヒット作との関連も指摘される、加藤泰×大川橋蔵の1964年『幕末残酷物語』も話題になりました。幕末の残酷さを問いかける内容、個人的には現代的な抗争劇などの要素を詰め込んでおり前衛さがあまり評価できない部分の時代劇映画でしたが、時代劇の概念に横槍の一石を投じる風潮は観る人によっては評価されています。
両雄の勝負の行方 名匠の文芸時代劇の代表作
1964、1965年の大川橋蔵主演作が13作、中村錦之助は主演が7作と6作も主演数に差がありましたが、代表作の数では主演が少ない中村錦之助が上回っていました。個人的には両者とも評価しているわけですが、中村錦之助は全般的には娯楽時代劇の代表作がほとんどを占めていますが、戦前から日活や大スター・入江たか子などと縁があった監督の田坂具隆とのコンビで、文芸時代劇の代表作が2作生み出せたところも大きな実積でした。
大川橋蔵は1967年に事実上に映画界を引退し、自分の意思でテレビドラマのみの活動に専念したため、中村錦之助が到達した映画主演数は100作の大記録は叶いませんでしたが、戦後の時代劇映画の発展や多様性に大きく貢献した俳優の1人でした。
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今回の裏話へ⇒裏側「6番手11人目が大川橋蔵のワケ 最大のライバルと勝負の行方」
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2017/05/10 00:00 | 超大物俳優 | COMMENT(0) | TRACKBACK(0)
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