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山中貞雄×大河内傳次郎 短命の大活躍の草間に恩師の顔




前回はかなり複雑な内容となってしまいました。その複雑な部分も大切だと考えています。面倒だから時間がかかるから、避けられがちな部分だからこそ、スポットを当てていくことがこうしたブログの役割なのかも知れません。今回はさらに前回以上に避けられがちな探求部分へ向かいます。


前回は大河内傳次郎と片岡千恵蔵の巨匠同士の部分をクローズアップしましたが、名監督の部分に迫ります。巨匠以上にややこしいところなので敬遠されがちな部分ですが、それは同時にもっとも大切な部分だといえるでしょう。





大河内傳次郎と飛び抜けて現在も有名な監督





大河内傳次郎の日活時代は巨匠には含まれない8名の名監督と縁がありました。
関わった順に高橋寿康、清瀬英次郎、辻吉郎、阿部豊、山本嘉次郎、滝沢英輔、山中貞雄、荒井良平です。




上記8名の”あの人に迫る”裏側
  ↓      ↓
大河内傳次郎と幻の名監督 ジョン・フォードやラオール・ウォルシュと映画100作




この8名の中でも山中貞雄は飛び抜けて現在も有名な監督といえるでしょう。何故なら将来の巨匠といわれた名監督だったからです。若い人物だったため、戦地へ行かざる得ない状況があり、残念ながら28歳で命を落としてしまいました。復員してあと10年、15年ほど現役で生きていれば戦後は巨匠として名を残していたのかも知れません。


この人物がのちの巨匠に含まれていれば、日活時代のみでは大河内傳次郎の巨匠とのコンビ数は10以上増え、片岡千恵蔵を上回っていたことでしょう。片岡千恵蔵は戦後も多くの巨匠とのコンビがあったため、通算で上回ることや近づくことさえも困難ですが、大河内傳次郎にとってもさらに実積が向上していたことでしょう。これも残念な部分でした。




大河内傳次郎が日活時代にコンビを組んだ名監督該当の人物の中で山中貞雄とのコンビは唯一の10作を上回っており、大河内傳次郎のとっても名監督8名の中では特別な存在ともいえるでしょう。




映画監督 山中貞雄
時代劇映画の1つのジャンルとなったともいえる前進座時代劇映画の河内山宗俊(1936)からか??奥に見える女優は原節子の可能性。上記の著者の加藤泰山中貞雄にある種のシンパシーを感じていたことでしょう。

加藤泰は1943、1944年の戦中に教育映画や現在の中国に当たる満映映画の監督をしていましたが、日本の一般映画のデビューがまだでした。戦争で日本の一般映画の監督への昇進が遅れるなどの影響を受けていました。加藤泰からすると山中貞雄は甥の親族ののみのつながりだけではない何かがあったはずです。





山中貞雄と大河内傳次郎のコンビ作 全て主演、全て日活




山中貞雄と大河内傳次郎のコンビ作 全て主演、全て日活


1933『薩摩飛脚 剣光愛欲篇』
1933『盤嶽の一生(1933)』
1933『鼠小僧次郎吉・前篇 江戸の巻』*大河内は鼠小僧次郎吉を含む3役
1933『鼠小僧次郎吉・中篇 道中の巻』
1933『鼠小僧次郎吉・後篇 再び江戸の巻』

  『鼠小僧次郎吉 断片版』
1935『国定忠次(1935)』
1935『丹下左膳余話 百万両の壺』
1935『関の弥太ッぺ(1935)』*稲垣浩と山中貞雄の共同監督
1935『怪盗白頭巾 前篇』*大河内は雲霧仁左衛門役
10
1936『怪盗白頭巾 後篇』
  『怪盗白頭巾 断片版』
1936『海鳴り街道』
  『海鳴り街道 断片版』
14



断片版を含めなければ11作ですが、含めると14作となります。14作中の「薩摩飛脚」、「盤嶽の一生」、「鼠小僧次郎吉」、「国定忠次」、「丹下左膳」、「関の弥太ッぺ」の通算9作は有名な題材や作品です。

実は「薩摩飛脚」は時代小説の巨匠の大佛次郎(大仏次郎)の代表作の1つで、大河内傳次郎の映画「薩摩飛脚」は2作が存在しています。「薩摩飛脚」は丹下左膳や国定忠治、大岡政談などで大きな成功を収めていた大河内×伊藤の名コンビで『薩摩飛脚 東海篇』として初めて映画化、映像化されました。この部分はあまり知られていないように思えます。

そして、この2作目であり、後編ともいえる『薩摩飛脚 剣光愛欲篇』が山中貞雄と大河内傳次郎の初のコンビ作となりました。


大河内傳次郎の映画「薩摩飛脚」
1932『薩摩飛脚 東海篇』伊藤大輔
1933『薩摩飛脚 剣光愛欲篇』山中貞雄



大佛次郎時代小説全集 薩摩飛脚

大佛次郎の薩摩飛脚を基にした作品は本人の原作やそれ以外を含めて、題名が含まれるだけでも1932~1955年の範囲で8作が存在しています。その中には大佛次郎が原作ではなく、映画300作以上を残した大脚本家の八尋不二による作品も原作兼脚本作などが存在しています。






山中貞雄の日活の活躍に恩師のあの人の影





山中貞雄は大スター嵐寛寿郎の寛プロで助監督を経てデビューして、評価を受けていた山中貞雄の日活第1作となりました。
寛プロは娯楽作を量産した映画会社であり、作家性を持つ山中貞雄の居場所としては窮屈な場所になってしまったようです。
嵐寛寿郎とは原作や脚本の提供、断片版含む監督8作のコンビを形成し、才能を離れることになりました。

嵐寛寿郎自身も彼の才能を認めたからこそ、その作家性の将来性に期待し、存分に活かせる日活に旅立たせました。



大河内傳次郎との初コンビの『薩摩飛脚 剣光愛欲篇』は日活からも評価を受けたのでしょう。これ以後も”山中貞雄と大河内傳次郎のコンビ作 全て主演、全て日活”のように有名題材やいくつかの代表作を残す10作以上のコンビを形成していきました。



ほぼ完全な形で視聴可能なのが有名な『丹下左膳余話 百万両の壺』です。

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この『丹下左膳余話 百万両の壺』は大河内傳次郎の丹下左膳が登場する大岡政談を含めると通算で8作目に該当します。


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2017/08/18 00:00 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

映画歴代対決没発 「七つの顔の男」と7番勝負




いつの時代も勝負はつき物です。それは当時の映画の激動期、現代の競り合いのない東宝の事実上の支配状態である低迷期も存在しています。独自な路線を大切にしたいため、前作の流れを広げて行こうとと思います。



前記事⇒【ハリウッド不可能】石原裕次郎と大河内傳次郎と片岡千恵蔵 時代超越 日活3大激突


映画歴代対決没発 「七つの顔の男」と7番勝負




片岡千恵蔵は1929年から1934年、1936年から1942年の13年間、大河内傳次郎は1926年から1937年の12年間にわたって日活との縁がありました。

日活時代の有名な役柄の数やオールスターの主演数などでは大河内傳次郎の方が上ですが、キネマ旬報などの当時のいくつかのベストテン賞へのランクイン数、出演や主演映画と代表作の数、巨匠とのコンビ数では片岡千恵蔵の方がダントツに上回っています。映画愛子的には俳優の評価は一つや二つで決められるものではなく総合的なものであり、総合的に上回っている部分が多いことから片岡千恵蔵の方が上だという判断をしています。


片岡千恵蔵大河内傳次郎の戦後は片岡千恵蔵が主演映画数では150作、対する大河内傳次郎は40作弱でした。戦後は主演数だけではなく、代表作や当たり役、観客動員など助演数以外の全ての部分で大差ついてしまいますが、戦前の日活時代は大河内傳次郎も高い人気や支持を維持しており、競り合っている部分が存在していました。



日活時代の片岡千恵蔵と大河内傳次郎の5番勝負 断片、総集編、縮濃版なども含む

・日活配給含む主演数=片岡千恵蔵 110強 (大河内は約95)
キネマ旬報などのベストテン賞のランクイン数=片岡千恵蔵
          (千恵プロ×日活のみで17、日活全体ではさらに多い)
・巨匠とのコンビ数=片岡千恵蔵 (稲垣浩、マキノ正博、伊丹万作など7名70強、大河内とほぼ互角)
・オールスターの主演数=片岡千恵蔵 (千恵蔵は10作、大河内は9作)
・有名題材の主演数=大河内傳次郎 
          (丹下左膳 大岡越前守 水戸黄門 国定忠治など約70、千恵蔵は約60)
・主な代表作数=60強から70付近でほぼ同格 
・観客動員=不明 互いに戦前は上位の通産観客動員だったと考えられる
          (主演やオールスター数は千恵蔵が15多いが、大型作数の多さから大河内の可能性)




日活時代は比較的どっこいどっこい 時空を越した奇跡の競演




キネマ旬報などのベストテン賞のランクイン数=現在よりも映画賞がものすごく少ない時代であり、当時でこれだけの膨大な数を獲得していました。現在ならこの数倍の数を獲得していたということがいえます。

評論家の全般的な評価は片岡千恵蔵でした。この7番勝負では片岡千恵蔵の方が全般的に上回っている状況があります。どの部分を重要に考えるかでも互いの評価が変ります。有名題材の主演数は大河内の題材重視路線、千恵蔵の前衛重視路線(ナンセンス時代劇や明朗時代劇の形成と牽引などの大きな実積を残す)などからも互いの活動路線に違いはありました。時代劇の場合は有名題材も評価の一つになるため、評価に含めています。


題材重視路線=先人の形成した題材を守りながら自分流のアレンジなど
前衛重視路線=有名な役柄や既存の概念に敬意を払いながら、新しい時代劇映画のジャンル形成への挑戦など


守ること以上に挑戦することは現代も同じですが、当時も難しい部分でした。


銀幕を知る男『毒蝮三太夫』が選ぶ発掘!昭和の大スター映画 「義理と人情 股旅時代劇編」3本セット


毒蝮三太夫によって時空を越した片岡千恵蔵と大河内傳次郎の名作同士による奇跡的な競演が実現
おまけにしては大き過ぎる長谷川一夫(当時・林長二郎)も登場






7大巨匠VS6大巨匠の激突





例えば、片岡千恵蔵は稲垣浩や伊丹万作、マキノ雅弘の3巨匠との主演コンビ10作以上で大成功していますが、大河内傳次郎は伊藤大輔のほかの巨匠とは10作以上の名コンビがありませんでした。

片岡千恵蔵の出演に関しては日本映画最初の巨匠・牧野省三や日本映画最初の大スター・尾上松之助の愛弟子の池田富保を含めた4巨匠の作品に10作以上の出演を果たしています。逆に大河内傳次郎は伊藤大輔、池田富保の2名に10作以上の出演を果たしていました。10作以上や5作以上の出演に関しては下記にようになっています。



日活時代の片岡千恵蔵の10作以上の出演 稲垣浩、マキノ正博、伊丹万作、池田富保 4名
日活時代の大河内傳次郎の10作以上の出演 伊藤大輔、池田富保 2名


日活時代の片岡千恵蔵の5作以上の出演 稲垣浩、マキノ正博、伊丹万作、池田富保 4名
日活時代の大河内傳次郎の5作以上の出演 伊藤大輔、池田富保、渡辺邦男、稲垣浩 4名




伊賀の水月剣雲三十六騎 [DVD]

日活時代劇を支えた巨匠・池田富保の数少ない製品化作品の『伊賀の水月 剣雲三十六騎』(1942)、
伊賀の水月は荒木又右衛門の題材としても何度も付けられている映画タイトルです。
オールスターまでは届かないキャスティングでしたが豪華です。

阪東妻三郎がもっとも得意とした十八番の剣戟を駆使する剣豪役、主演の荒木又右衛門を演じていました。
下の写真は阪東妻三郎ですが、上の写真は現代劇を中心に活躍した渡辺数馬役の滝口新太郎だと考えられます。
滝口新太郎は日活多摩川の現代劇の主演スターとしてのピークは1933~1939年と短期間でしたが、
この頃の日活は時代劇が中心であるため、2枚目俳優の要因として時代劇映画へ20作以上の助演や脇役の出演がありました。





配給含む日活時代の片岡千恵蔵や大河内傳次郎と巨匠たち 断片、総集編、縮濃版なども含む




日活時代の片岡千恵蔵と巨匠たち(千恵プロ×日活、日活) 1929~1934、1936~1942

・稲垣浩 30作 すべて主演
・マキノ正博 19作 すべて主演 39
・伊丹万作 16作 全て主演 55
・池田富保 11作 主演6 助演5 66
・伊藤大輔 3作 主演2 助演1 69
松田定次  2作 すべて主演 71
・渡辺邦男 1作 すべて主演 72

通算72作




*マキノ正博=のちのマキノ雅弘
片岡千恵蔵と稲垣浩や伊丹万作のコンビは日活の配給以前は含んでいません。
*1929~1934、1936~1942 千恵プロは1935年のみ日活を離れて新興キネマと配給関係を結んでいました。


日活時代の大河内傳次郎と巨匠たち(日活) 1926~1937

伊藤大輔 31作 主演30、助演1
池田富保 18作 主演6 助演12 49
渡辺邦男 8作 主役8 57
稲垣浩 8作 全て主演 65
内田吐夢 2作 主演 67
村田実 1作 主演 68
通算68作




片岡千恵蔵の方が幅が広い巨匠と日活時代に多くのコンビを組んでいました。稲垣浩、マキノ正博、伊丹万作、池田富保、伊藤大輔、松田定次、渡辺邦男の7大巨匠と1作以上のコンビ作がありました。これも彼の大きな評価といえます。大河内傳次郎はマキノ正博や伊丹万作とのコンビがありませんでした。逆に片岡千恵蔵は村田実と内田吐夢とのコンビは日活時代にはありませんでしたが、戦後の東映時代に10作以上で大きく関わることとなります。片岡千恵蔵と村田実は日活時代には縁がありませんでしたが、1935年の新興キネマの配給時期に1作のコンビ作があります。


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1946年、戦後の日本映画界で初の大ヒットシリーズとなったのが、「七つの顔」からスタートした「多羅尾伴内シリーズ」、別名「七つの顔の男シリーズ」(初期から中期は巨匠・松田定次が監督)であり、「月光仮面」、「仮面ライダー」など数多くの後世への影響を与えた部分が存在しています。

片岡千恵蔵は時代劇映画でも大ヒット作を数多く送り出しながら、23作のギャング映画と並ぶ、現代劇映画の十八番として大映から東映で作られ、通産でかなりの観客動員を記録した作品としても知られています。

時に探偵、時に刑事、特に浮浪者など神出鬼没の謎の男の活躍を描いた斬新な異色作であり、奇想天外の内容も受け入れられ、1946年から1960年までさまざまな工夫を織り交ぜて、15年11作が公開されました。多羅尾伴内は片岡千恵蔵の10つを越す映画の当たり役の一つです。





今回のタイトル「映画歴代対決没発 七つの顔の男と7番勝負」の由来は戦後の片岡千恵蔵の代表作シリーズの一つ「多羅尾伴内」の別名「七つの顔の男」をヒントにして、大河内傳次郎の目線を軸にしたタイトルです。7番勝負の意味も含んでいます。



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特定人物を正義を振りかざすようにぶり返し取り上げる不公平と石原裕次郎

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2017/08/04 00:14 | 超大物俳優COMMENT(1)TRACKBACK(0)  

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