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激動の戦時下に映画主演150作を突破した超大スターの波乱万丈の非常事態

激動の戦時下に身をと応じた日本映画界、今の日本映画界よりもこのころ日本映画は何倍も国民の人気がある時代でした。それなのに、映画人は作りたい作品が作れず、映画ファンたちは観たい作品がかなわず、娯楽や芸術が乏しい時期に入りました。この時期の悲惨な映画界を知ることは未来に起こるかもしれない戦争に対して「いいえ」を言うことにつながります。

歴代上位の映画スター同士の市川右太衛門長谷川一夫との唯一の関わりはたった3年間で3度きり


前回の記事よりも少し時間がさかのぼります。市川右太衛門が1937年に新興京都に移籍する前、右太プロ時代に転機となることが起こっています。1930年代には松竹時代劇の看板スターとなっていた長谷川一夫(当時・林長二郎)とは1932、1933に3度共演しています。そのとき右太衛門は右太プロ時代であり、特別に松竹(松竹下加茂)に招かれて出演を果たしています。1932年「忠臣蔵 前篇 赤穂京の巻」(メインの助演)、「忠臣蔵 後篇 江戸の巻」(メインの助演)1933年「天一坊と伊賀亮」(W主演)この松竹との縁がのちに↓の方でつながります。それまでは右太衛門は他の時代劇6大俳優の5名との共演をしない活動をしてきています。二人は戦後も大スターとして活躍し続けていますが、長谷川一夫との映画共演は生涯でこの3年間のたった3度のみです。

時代劇6大俳優と格下の映画スターの力関係


ちなみに市川右太衛門のライバルで日活や自分の会社の千恵プロに在籍していた片岡千恵蔵は、嵐寛寿郎大河内伝次郎との共演が1920年代からありました。前回の記事の言い方でいうとある意味では開国派(当時としては多数の俳優と共演する)だったのかもしれません。というよりは、1920年代から30年代前半にかけては特に当時は多くのスターを抱えていたわけで、スターが多い=日活が日本映画を牽引していた事実上のトップ会社だったわけです。

当時、松竹や1933年に創立した直後のP.C.L.(現・東宝)には日活ほどの数多くの中スター以上(映画スターには大・中・小がある)がいませんでした。松竹には1927年から長谷川一夫(当時・林長二郎)がいました。俳優では彼のみが市川右太衛門片岡千恵蔵らと履歴や数字、代表作などにおいて対抗できたものの、俳優だけでは松竹は日活よりもかなり劣るものだったのです。時代劇スターの高田浩吉坂東好太郎は、林長二郎と含めて「松竹下加茂三羽烏」と数えられ活躍しましたがこの二人(高田、坂東)は当時はスターとしては数的に大きく劣っています。この3人の中では当時もトータルでも長谷川一夫が数字的は飛び抜けています。

新興京都(新興キネマ)と市川右太衛門の出会いはある意味で必然


以前の長谷川一夫との3作の共演歴、松竹との以前の縁がここで生かされ新興京都の出会いをもたらしています。新興京都(新興キネマの時代劇部門)は松竹の傍系会社であり、事実上は系列下にある映画会社だったのです。市川右太衛門は1937年にいわゆる新興キネマ(松竹と関連してるといわれる映画会社で、のちに大映を形成)という映画会社の京都、時代劇をメインにしていた新興京都のトップスターとなりますが、この新興京都時代の約5年で右太衛門の主演映画が30作ほどになり、移籍した1937年の時点で通算主演映画数が通産で約150作に達しています。当時の現役俳優ではベスト3に入ります。1937年の時点で2014年に亡くなった高倉健の生涯主演作数を大きく上回る大活躍でした。

新興京都時代の有名な共演者として、森静子鈴木澄子などのスター女優、右太衛門の後輩の時代劇スター大友柳太朗(当時・郎)や大谷日出夫などとも何度か共演しています。森静子というと同じ森であるため、最近まで存命だったことから森光子を連想される方もいるかと思いますが、このとき子役時代から娘役時の森光子とも共演しています。また、のちに大女優となる山田五十鈴とも新興キネマ時代に初共演を果たしています。
映画二つ折りチラシ 「噫 活弁大写真(千恵蔵の瞼の母/阪妻の雄呂血)」活弁 松田春翠 出演 片岡千恵蔵、山田五十鈴/阪東妻三郎、森静子
映画二つ折りチラシ 「噫 活弁大写真(千恵蔵の瞼の母/阪妻の雄呂血)」活弁 松田春翠 出演 片岡千恵蔵、山田五十鈴/阪東妻三郎、森静子有名な「瞼の母」は千恵蔵で初の映画化され、1931年に巨匠・稲垣浩との名コンビ、1936年の2度も演じている代表作の二つ。阪妻の1925年「雄呂血」は、それまで約3年間の助演俳優だった阪妻が主演スターの流れに入るきっかけとなった代表作のひとつです。

激動の戦時下に映画主演150作を突破した超大スターの波乱万丈の非常事態


その後、映画会社の新興キネマは大都映画と合併して1942年に大映となり、新たな時代のスタートです。時代は1941年に開戦、第二次世界大戦に突入しており、激動と変革の時期に突入しています。数多くの映画スターたちが映画にあまり出られずに苦しむ数年間が始まります。新興キネマ時代には1925年の映画デビューからのトータルの主演映画が150作以上を上回り、事実上のトップスターだった市川右太衛門ですが、大映となるとトップからトップクラスの俳優にある意味での格下げ状態となってしまいます。1位から1位の集団になるのですから、かなりの激動の荒波が押し寄せ、彼からすれば非常事態です。

非常事態。なぜ、それは他社から自分と同等、または上のクラスに該当する映画スターが移籍してきたからです。それが片岡千恵蔵嵐寛寿郎阪東妻三郎の3名なのです。他にも月形龍之介大友柳太朗(当時・郎)、沢村国太郎阿部九州男羅門光三郎尾上菊太郎など映画の主演スターが10名ほど続々と大映にやってきます。

時代劇6大俳優”では、市川右太衛門も含めて時代劇4大俳優が揃う豪華な状況に陥った大映では、このころ「維新の曲」(1942)や「かくて神風は吹く」(1944)が作られています。片岡千恵蔵嵐寛寿郎阪東妻三郎、市川右太衛門の4大スター競演とオールスター(4名以外の映画スター俳優が何名も出演)を同時に兼ね備えた時代劇映画「維新の曲」、4大スター競演のみ「かくて神風は吹く」のこの4名同時の共演作は生涯で2作のみで共演を果たしています。この作品、当時も大きな話題になったようです。最近、後者の作品についてNHKのラジオで赤木春恵が触れ、片岡千恵蔵の名前を連呼して話していました。
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2015/08/25 18:24 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

戦後70年とよみがえる幻の有名映画たち、伝説の大女優と大スターの彼に迫るただならぬカンケイ

戦争の影がとある伝説の大女優と包んだことはあまり知られていません。太平洋戦争が始まる1940年代まで、彼女は主演映画女優としての地位を確立させていました。戦後70年に関連した記事を書いて行きます。

前記事⇒ホラー映画の巨匠を輩出した映画スターとの秘密のエピソード
今まで数多くこの流れを書いていますので興味ある方は、ブログ全体の左側にある最新記事の一覧から飛んでみてください!

新興京都のトップスター市川右太衛門の出会い


市川右太衛門は1937年にいわゆる新興キネマ(松竹と関連してるといわれる映画会社で、のちに大映を形成)という映画会社の京都、時代劇をメインにしていた新興京都のトップスターとしての活動する時期に入ります。この新興京都時代の約5年で右太衛門の主演映画が30作ほどあるのですが、新興京都時代には、森静子(事実上、新興キネマ、京都の女優のトップスターの一人)の映画女優、右太衛門の後輩として売り出していたころの時代劇スター大友柳太朗(当時・郎)と何度か共演しています。また、新興キネマには鈴木澄子という当時でも大女優に近い実籍を持つ女優が在籍していました。

戦前の幻の大スター&大女優・鈴木澄子の多大な痕跡たち


鈴木澄子は新興京都の所属時代の1935~1941年、デビュー10年を越す女優としては、当時前例のない女優の映画スターです。戦前だけで、映画でのトータルヒロイン数がナンバーワンの大女優田中絹代を上回る150作以上のヒロイン以上の作品があります。市川右太衛門と鈴木は新興以前の右太プロ時代から(1929~1937まで10作以上)共演して、鈴木はそのほとんどでヒロインを務めています。といっても彼女がどんな女優かわからないと思いますので簡単に説明します。

鈴木澄子とは、「四谷怪談モノ」のお岩、「高橋お伝モノ」、「怪猫シリーズ(戦前版)」、「競艶録録モノ」などでも知られ、戦前に大活躍した幻の大女優の一人といえる存在です。当時の時点でこれほど活躍した女優は誰もいませんでした。ヒロイン数が女優では数名のだけの150作を越していることからある意味、日本初の大女優ともいえます。

日本の女役が全面に出る時代劇の怪談モノ、現在でいうと和製ホラーの女優としての先駆者ともいえる存在に位置づけられます。現代のアイドルのようなタレントは、素をさらけ出すような演技で和製ホラーに多数出演しているのとは違い、演技がきちんとしている面ではかなり違いがあります。

鈴木澄子怪談モノに該当する映画のヒロイン・主演作は映画女優としては歴代最多の通算15作以上あります。活動は1921~1958年までとされていますが、主演の映画スターとしての活躍期間は1927~1941年の約14年間までとなっています。14年間でピークが続いたといってよいと思われます。太平洋戦争が始まる1940年代、彼女の主演映画女優としての地位は戦争の始まりで終焉を迎えています。そういう面では彼女も戦争の被害者なのかもしれません。

市川右太衛門と共演歴もあり、同じく歴代上位の映画スターの長谷川一夫・主演の「四谷怪談」、鈴木澄子の主演版は現存しているかもしれませんが商品化されていないのが残念です。

鈴木澄子と市川右太衛門の”アノ男”を介するただならぬカンケイ


鈴木澄子と市川右太衛門とはただらなぬ関係があります。右太衛門もあのマキノに見初められて映画スターとなったのも知られていますが、鈴木澄子もマキノ、つまり”アノ男”である日本映画の父・超大物の牧野省三の傘下の会社・マキノ御室で活躍の飛躍の転機をつかんでいるです。映画デビューしたときはぱっとしない数年間でしたが、マキノ御室の在籍をきっかけに現在でも有名な怪談の「いろは仮名四谷怪談 前後編」(1927)でお岩を演じ、大女優へ流れを踏み出します。

鈴木澄子にとって四谷怪談モノのお岩さんは当たり役となり、映画で歴代最多の通算5度以上演じています。映画デビューからの年数では右太衛門(1925~)よりも鈴木(1921~)の方が長く、ある意味で姉弟のような部分もあったのではないでしょうか。戦後でいう山本富士子(姉)市川雷蔵(弟)の姉弟のような共演関係も頭をよぎります。また、彼女の演じた毒婦として知られる”高橋のお伝”も今での有名な役ですが、「怪猫シリーズ」は戦後も作られてトータルでは大女優といえる入江たか子の再ブレイクにも関わっています。今でも有名な題材です。

ちなみに黒澤明が監督した「羅生門(1950)」は、実はそれ以前にも映画化されています。それが鈴木澄子が主演した新興京都版の「羅生門(1941)」です。この作品は鈴木澄子の最後の主演作といわれ、これも代表作に含まれそうです。これも現在、再放送さえされていない幻の映画です。鈴木澄子は映画界に数多くの痕跡を残しています。
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2015/08/15 13:13 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

ホラー映画の巨匠を輩出した映画スターとの秘密のエピソード??


戦前と戦後を通じて映画スターとして活躍した世界でも数少ない俳優


戦前と戦後を通じて映画スターとして活躍した数少ない俳優。市川右太衛門片岡千恵蔵たち
今年、戦後70年の映画や俳優を語るためにも本当の意味で大きな俳優が片岡千恵蔵市川右太衛門です。戦前だけではなく、戦後だけではない。これが重要な部分であり、戦前と戦後を通じて大スターの映画俳優として活躍した俳優は世界にも数少ない現実があります。

特に日本は戦争の戦後の影響を受けて主演のスター俳優から脇役に回っ俳優たちが確認してる限り、数十名います。
いわゆる時代劇6大俳優(片岡千恵蔵市川右太衛門長谷川一夫嵐寛寿郎阪東妻三郎大河内伝次郎、左から主演数が多い順に表記)は6名平均で1920年代後半から1960年代前半まで活躍し、前戦後通じてスターでした。これがいかにすごいことであるのか、国民的大スターであったのか、さまざまな人物を知るとわかってきます。この6名の主演した映画の総数はなんと1600作に近い数になります。日本映画や日本芸能を牽引してきたのは数多くの面で明らかなことです。

自らの名前を持つ映画プロダクションで巨匠を輩出した痕跡ホラー映画の巨匠を輩出した映画スターとの意外な人間カンケイ??)


そのなかでも、前回の続きになりますが市川右太衛門はとある作品で片岡千恵蔵と出会います。その出会いのときには、すでに二人は国民的俳優でした。そのだいぶ前に市川右太衛門は1925年のデビューして当たり前のようにたちまち映画スターとなっています。映画俳優としてのデビュー前(歌舞伎時代)から人気があったといわれていて必然のスターだったのです。その2年後に右太プロを創設し、9年間にわたって自分の会社で自分を今でいうプロデュースしていた時代を迎えます。市川右太衛門は右太プロこと市川右太衛門プロダクション(市川右太衛門の映画会社)時代が1927~1936年まであります。この時期は共演俳優が少ない時期のある意味で鎖国の状態ですが、このとき「旗本退屈男シリーズ」とも巡りあいます。また、のちの怪談映画の巨匠といわれる監督の中川信夫(右太衛門とは1935~1962年までの約27年に及ぶ計10作にわたってコンビ作がある)を自社で監督デビューさせるなど、彼にとってこの時期は価値がある映画プロダクション時代だったのです。映画監督の中川信夫の輩出は右太プロの大きな痕跡の一つとなっています。

中川信夫は普通な時代劇監督としても活躍していますが、戦後の新東宝の映画時代を中心に「地獄」や「東海道四谷怪談」など数多くの怪談モノなどで戦前から戦後の長期にわたって活躍した映画監督です。現代でいう和製ホラーブームの形成にも大きな関わりがあります。最近の一言でいうと、「リングシリーズ」や「呪怨シリーズ」などにも大きな影響力があるのです。中川信夫の遺作である1982年のATGの映画「怪異談 生きてゐる小平次わたくし愛子も10年ほど前に観ていますが、青春群像劇タッチの怪談映画です。今でいうホラーモノともいえます。


市川右太衛門のほかの映画プロダクションと時代劇の大スター


当時に俳優が自分の映画プロダクションを持つことは非常に稀でした。戦後よりも多い100名以上の映画スターが存在した戦前の日本映画全盛期ですが、その人数は数えるほどです。大スターのみが許された特権の一つだったのです。片岡千恵蔵嵐寛寿郎阪東妻三郎なども自分の映画会社の時代を1920年代後半から1930年代中盤にかけて経験しています。市川右太衛門に関しても、このときの成功や失敗や人脈などの経験が戦後の東映(東横含む)の専属時代(1949年代~1964年)にも、おおいに生かされている事実はいうまでもありません。
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2015/08/06 19:02 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

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