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(追悼特別企画・原節子)マスコミが無視する原節子の痕跡の1ページ


戦後の日本の映画界に大きな痕跡を残した原節子が亡くなれました。95歳で2015年9月5日ということで95歳9月5日でぞろ目です。彼女が姿を消して半世紀強、彼女の痕跡を振り返ることでお悔やみ申し上げたいと思います。

実は彼女が亡くなったと報じられた昨日、彼女が出演しているとある映画を視聴していました。もちろん、存命だと知ってはいましたが、まさか、という感じでした。有名どころで90歳を越している存命者では京マチ子や月丘夢路も彼女と年が近いです。テレビは小津安二郎(6作)や黒澤明(2作)、今井正の1949年の「青い山脈(1949)」「続青い山脈」、「青い山脈(総集編)」を”青い山脈”と片付けるように初日は団結していしたが、そんなことはございません。簡単に済ますほどそんなに安っぽい女優ではありません、だから歴代上位に入る大女優なのです。

前回の記事⇒阪東妻三郎とそのドキュメンタリーの謎。その矛盾には息子たちや電通の影があるのか?

マスコミが無視する原節子の痕跡の1ページ


原節子は子役時代(少女時代ともいえる)に1937年に映画のデビューしています。15歳だったといわれていますが、初のヒロイン作は日活の多摩川撮影所時代(現代劇の映画の撮影所)にまでさかのぼります。

原節子は1937年の「緑の地平線 前篇」から7作にわたって戦前の現代劇の映画スター・岡譲二していきます。初に映画スターとの共演といえるでしょう。その直後に、日本で初期に国際的に活躍した現代劇メインの映画スターの早川雪州と共演した1937年の「新しき土」においても妹役で出演しています。日独版はアーノルド・ファンクという監督が勤め、日英版は名匠・伊丹万作が勤めていることからも、当時ではあまり例がなかった異色作です。アーノルド・ファンクはドイツの映画監督で山岳映画のパイオニアといわれています。伊丹万作は戦前・戦後通じて活躍した歴代上位の映画スター・片岡千恵蔵と主に戦前にコンビを組んでいくつかの代表作を残しています。伊丹十三の父。

時代劇の有名作では、若くして戦火で亡くなった早熟名監督の山中貞雄による*前進座時代劇の「河内山宗俊(1936)」や、娯楽映画のヒットメーカーといわれる巨匠・渡辺邦男の1936年「丹下左膳 日光の巻」に助演で出演を果たす。当時の時点で大スターとなっていた時代劇6大スターの一人・大河内伝次郎の当たり役シリーズが丹下左膳です。「検事とその妹」も渡辺邦男の監督作です。

時代劇の経験も積んでいきます。しかし、このころはブレイクというほど彼女は評価されていませんでした。日活の多摩川時代の原節子のヒロイン該当作は2作のみで単独主演はゼロです。

*前進座時代劇とは歌舞伎俳優が中心の劇団・前進座のメンバーが主演やメインで出演している時代劇映画の総称名優・河原崎長十郎や中村翫右衛門、 山岸しづ江(のちの河原崎しづ江)、市川莚司(のちの加東大介)なども在籍しています。


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原節子が真の原節子になるまでの重要なプロセス


原節子が真の原節子になるまでの重要なプロセス。それは1939年に彼女にとって大きな転機となったのが映画会社の移籍です。東宝の現代劇に日活から移籍しますが、時代劇にも出演しています。東宝で彼女の才能が徐々に開花することになります。移籍直後に初の主演作(相手としてのヒロインの主演ではない)が作られることになります。1939年の監督・山本薩夫による「美はしき出発」という映画です。原節子は、この映画までに20作強の映画に出演しているといわれていますが、助演を重ねながら主演やヒロインをまれに重ねる日々が続きます。大成からすれば、まだまだ冬の時代といえます。

東宝時代の時代劇では大河内伝次郎と名匠・伊丹万作がコンビを組んだ1938年の「巨人伝」にヒロインで出演、大河内伝次郎(役名・大石蔵之助)、長谷川一夫(浅野内匠頭)らの東宝オールスターキャストによる1939年の「忠臣蔵 前篇 後篇」で脇役の脇役、ワンシーンほどの仲居役で出演。この作品がオールスターには初出演です。前半は時代劇映画で高い評価を受けていた滝沢英輔ですが、後半では黒澤明が助監督を勤めています。監督は黒澤が師事した山本嘉次郎です。戦後の黒澤明の出演作につながっていきます。

その後も忠臣蔵よりも落ちる東宝オールスターキャストの衣笠貞之助の監督、長谷川一夫・主演「蛇姫様(1940)」にも出演し、原節子は琴姫役を演じています。琴姫という役は作品の重要な機能を果たすそこそこ有名な役です。これは彼女が実積を積んで、徐々に評価されてきたことを意味しています。他に大河内伝次郎、山根寿子や山田五十鈴、黒川弥太郎や丸山定夫、薄田研二や進藤英太郎、横山運平などの有名俳優も数多く出演しています。

原節子の全体のイメージと食い違う戦前のイメージ


現実の原節子は意外なことに、戦前においては全体のイメージと異なり時代劇の有名作に多く出演しているのです。現代劇はあまり有名作がありません。数がそこそこあることからも時代劇映画の助演としては活躍したといえるかと思います。特に大河内伝次郎の有名作や代表作には助演でそこそこ出演しているものの、原節子は主演やヒロインの大きな代表作はないまま、戦後の1945年を迎えてしまうのです。戦後は時代劇にGHQなどにより、刀の剣戟が行えない事態に陥ります。それもあってか現代劇に観客の目が向きやすくなってきます。戦後のこのGHQによる1952年までの統制という時代の変化の波は、原節子の戦後のブレイクに一役は買っているのではないかと考えています。
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2015/11/26 22:26 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

阪東妻三郎とそのドキュメンタリーの謎。その矛盾には息子たちや電通の影があるのか?



前回の内容の流れなので、もう少し書かせてもらいます。多少は刺激的に書いてしまい申し訳ない限りです。若者にも見ていただきたい現代のブログではあるのでご理解していただきたいところです。あまり順位があれこれは出さないほうがいいのが現実です。このブログにも”独自な方向を模索する作風”というものがあるのでその辺もご理解いただきたいところです。不注意で前回は書くのを忘れていますが、阪東妻三郎はすばらしい俳優です。間違いなく歴代上位の俳優であることは間違いのない事実です。有名な役を多く演じてる点、主演数、代表作数も上ですが、影響や痕跡などにおいて映画の全盛期に生き抜いたことからも高倉健を上回る映画スターでした。高倉健は若い層も名前は知ってると思うので比較として表記させています。”すばらしい俳優”この事実をちゃんと書き加えることは大切なことです。その上で阪東妻三郎に関するあれこれを書くことが必要です。

前回記事⇒阪東妻三郎の真実、まさかの現実、それは本当は1度も一位になれなかった男?

阪東妻三郎とそのドキュメンタリーの謎。その矛盾には息子たちや電通の影があるのか?


がらりと変わりますが阪東妻三郎には俳優としてで活躍した息子がいます。田村高廣(すでに故人)、田村正和田村亮と3名がいます。田村高廣は映画では主演俳優として売り出したものの、「兵隊やくざシリーズ」など以外ではあまり活躍できずに脇役に転向しのちに大成、映画やテレビで大トリのクレジットが多数、全般的には脇役がメインとして活躍、田村正和は1970年代から2000年代の前半にかけてテレビでスター的な活躍を果たしました。視聴率20パーセントを記録したテレビドラマに1980年代後半から2000年代前半にかけて、多く主演して名を残しました。若いそうにもお笑い芸人などにネタにされて知名度が高い俳優です。また、田村亮は前記の二人よりは実積は劣りますが、自分なりの活動を続けてしています。その田村亮の息子もデビューしています。息子の活躍が阪東妻三郎の知名度を高めることになっているところは否めませんが、逆に芸能に貢献した息子が数名いるので当たり前ということも言えるかと思います。水上保広は脇役のベテラン俳優ですが、他の子供たちと母親違いの阪東妻三郎の息子です。

阪東妻三郎に関するドキュメンタリー番組が放送されていました。WOWOWのドキュメンタリー番組です。約50分のシリーズで映画だけではなく、さまざまなジャンルについて取り上げていドキュメンタリーのシリーズですが、

その番組の中で、阪東妻三郎が新たな映画事業を視野に入れて中国の権力者を招待したサイレントの映像や1953年の阪東妻三郎の葬儀を記録した映像なども含めて放送されました。その部分はなにもいうことがないところです。阪妻の痕跡の取り上げられ方について残念ながらいくつかの問題を感じてしまいました。これには残念です。色々と阪妻にとっては都合がよい風に仕上がっていました。阪東妻三郎だけが活躍したかのように取り上げていたところは、うなずけるものではありませんでした。当時の情報を知らないとあのままを信じてしまう危険性が存在しています。前回の記事からもその一部がわかっていただけると思いますが、阪東妻三郎だけやトップと位置づけることは容易にはできません。トップと位置づけること戦前においてと取り上げているならまだ理解できたのですが、それさえありませんでした。これは大きな問題を感じました。そんなWOWOWのドキュメンタリー番組でした。機会があれ見ていただきたいところです。

阪妻-阪東妻三郎の生涯/Bantsuma-The Life of Tsumasaburo Bando [DVD]松田映画社の設立者や活動弁士としても活動した松田春翠が製作した長編ドキュメンタリー作品。

番組には大ベテランの映画評論家の佐藤忠男なども登場しています。エンディングの製作を見てみたらやはりそうでした。製作がWOWOWと”あの電通”なのです。なんだか無意味に悟ってしまいました電通と発信される情報の関係。このことについては深く触れると危ういとこになりかねないのでこれぐらいで避けさせてもらいます。電通は子供などの知名度などのこともあり、阪東妻三郎をトップに添えおくことが一番にメリットがあると判断しているのかもしれません。このことは現実には一概にはいえないところです。残された数字においては前回記事の6名の中でも5番目なのですが、そのように取り上げておきたいようです。数字以外を含めても上位であるのは事実ですが、難しいところです。番組の最後は阪東妻三郎の孫で田村亮の息子が東映の京都撮影所で出番がほとんどない役で出演しているシーンでさびしく終わっています。

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2015/11/17 19:07 | 超大物俳優COMMENT(1)TRACKBACK(0)  

阪東妻三郎の真実、まさかの現実、それは本当は1度も一位になれなかった男


伝説的空前のオールスター映画「維新の曲」で共演している片岡千恵蔵市川右太衛門嵐寛寿郎阪東妻三郎の4名に長谷川一夫大河内伝次郎の2名を追加して時代劇6大スターや6大俳優といいますが、この言葉はこの6名が近いレベルの範囲で競り合ったころを意味する言葉です。そのため、生涯を通した痕跡や実積、記録などでは、大きな差がついているため、これだけで説明することは不可能です。今回は”阪東妻三郎の真実、まさかの現実、それは本当は1度も一位になれなかった男”と題して展開していきます。

前回の記事リンク⇒マスコミやテレビが取り上げられない本当の歴代上位映画スター俳優たち数字を発掘

「1942.05.14 維新の曲」の時点の時代劇6大スターの映画主演数の順位


「1942.05.14 維新の曲」の時点の時代劇6大スターの映画主演数の順位(*1)

1位・市川右太衛門・主演175作、助演5作、出演180作
2位・片岡千恵蔵 ・主演161作、助演12作、出演175作、出演2(*2)
3位・嵐寛寿郎・主演148作、助演17作、出演166作、出演1
4位・阪東妻三郎・主演143作、助演50作、出演194作
5位・長谷川一夫 ・主演140作、助演15作、出演155作(*3)
6位・大河内伝次郎・主演98作、助演25作、出演123作


*1・確認できる映画作のみ
*2・主、助に該当なし2作
*3・追加の長谷川・大河内は「維新の曲」出演していないものの、
他の4名との比較のために「維新の曲」の時点での数字を表記


阪東妻三郎が限定的にサイレント映画期のトップの理由


上記の順位に時代劇6大スターや6大俳優に該当する他に2名を含めて順位を作り直してみます。長谷川一夫が5位、大河内伝次郎は6位となります。阪東妻三郎はこの4名の中ではサイレント時代の終了時(1934~1935付近)までは若手では総合的にトップでした。ですが、現存作品においても伝説の映画スターである尾上松之助沢村四郎五郎嵐璃徳山本嘉一などの大先輩(サイレント期だけで主演が100作越え)を含めるとサイレント時代だけでは数字的には圧倒して5位以下といえます。

サイレント期のトップと言ってもベテラン若手の中のレベルの話なのです。ここが重要で、若手の中レベルです。サイレント期においては若手の中でのトップ、それは主演数や出演数、代表作数や痕跡などにおいては、ほぼ事実です。若手の中でのレベルなので正確にはトップであるということは事実ではありません。

数字では片岡千恵蔵市川右太衛門長谷川一夫嵐寛寿郎。そして、阪東妻三郎である現実


小タイトルの片岡千恵蔵市川右太衛門長谷川一夫嵐寛寿郎の順番ですが、トータルではこうなります。この順番の説明は一言や簡単には説明ができず、すごく複雑です。今回はさわり程度でいきます、戦前は市川右太衛門片岡千恵蔵を主演や出演数では上回っていますが戦後やトータルでは逆転します。また戦前の時点でも有名な役数や総数、代表作数などは片岡千恵蔵市川右太衛門を大きく上回っています。主演や出演数では劣っているだけなのです。ややこしいところですが、近いうちこの二人の競い合いも取り上げます。長谷川一夫嵐寛寿郎についてもですが、戦後も含めたトータルでは長谷川一夫が上であると考えています。戦前の時点では嵐寛寿郎の方がさまざまな理由で評価されるべきだといえます。

時代劇六大スター 戦前篇―藤波米次郎コレクション

サイレント映画時代は若手の中で頭が一つ抜けていた阪東妻三郎は、1930年代中盤にはその地位が徐々に揺らぎ始め、戦後を含めると、この6名の順位の中では主演数が5番目となってしまいます。前回の記事に書いているように阪東妻三郎は市川右太衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎に主演数で抜かれた上に、長谷川一夫にも主演数で抜かれる寸前にあり、戦後になるとあっさりと抜かれています。

以前に大河内伝次郎について記事で少し取り上げていますが、彼は戦後の活躍を含めても阪東妻三郎の主演数を生涯で上回ることなく、脇役の大物俳優に転身しています。主演では及びませんでしたが、脇役を含める出演数では50作以上で上回っています。

阪東妻三郎の出演194作は”上記の「1942.05.14 維新の曲」時点の映画主演数の順位”のとおり、助演時代の映画出演により出演数はトップですが、「維新の曲」の時点での代表作数は片岡千恵蔵、嵐寛寿郎と近いレベルといえますが、、当たり役のなさにおいても「維新の曲」の時点で他の市川右太衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎ら3名に劣っています。(劣る理由など近いうち説明予定)阪東妻三郎は戦後になると出演数さえも他の4名(市川右太衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、長谷川一夫)に軽々と抜かれてゆくのです。最終的な出演数では、4名の中で一番少ない300作強の長谷川一夫で説明すると、この4人と阪東妻三郎は出演数では80作以上の差がつきます。これは大きな差である事実でもあり、曲げることが許されない事実です。
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2015/11/05 17:58 | 超大物俳優COMMENT(2)TRACKBACK(0)  

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