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東宝の歴代ナンバーワン俳優の裏にうごめく知恵袋 フランスベテラン女優の面影



戦略、それは時に勝利するために大切です。
他社に対するためにある知恵袋を働かせた会社がありました。


前回記事⇒6番手11人目が大川橋蔵のワケ 最大のライバルと勝負の行方



東映が日本映画黄金期の俳優にとってトップの場所だった現実




まずは下記をご覧ください。


<戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数が途絶えた順番>
途絶えた年 俳優名  連続年数  連続年数の内訳

1961    長谷川一夫    12    1950~1961
1962    市川右太衛門   11    1952~1962  
1963    中村錦之助    10    1954~1963
1963    美空ひばり    13    1951~1963
1963    片岡千恵蔵    14    1950~1963
1965     大川橋蔵      10    1956~1965   
1966    森繁久彌      12    1955~1966
1967    市川雷蔵     13    1955~1967
1968    勝新太郎      14    1955~1968
1970    小林旭       13    1958~1970
1972    鶴田浩二      12    1961~1972



戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優は全部で12名いました。記録の期間内の半分くらいが東映の俳優です。片岡千恵蔵、市川右太衛門、中村錦之助、美空ひばり、大川橋蔵、鶴田浩二、上記の11名中、東映の専属、または東映が中心の映画スターが半分以上の6名もいたことになります。

この半分に上という部分も東映が日本映画黄金期の俳優にとってトップの場所だった理由の一つといえるでしょう。大映は長谷川一夫、市川雷蔵、勝新太郎の3名で2番目でしたが、日活は小林旭のみ、東宝森繁久彌のみでした。新東宝や松竹は残念ながら0名です。


人物では最後に表記している今回は森繁久彌を中心に進めていきます。

上記の1966    森繁久彌      12    1955~1966の部分

映画パンフレット 「夢一族 ザ・らいばる」 監督 久世光彦出演森繁久彌、郷ひろみ

森繁久彌と郷ひろみがダブル主演した1979年の東映京都の映画「夢一族 ザ・らいばる」、森繁久彌は通産で130作強の主演作、郷ひろみは6作目の主演作でした。通産で250作以上の映画を手がけた東映の名制作者の俊藤浩滋が企画参加し、テレビドラマの名演出家や名プロデュサーの久世光彦が初めて手がけた映画でした。




森繁久彌の12年連続の主演5作は東宝中心?!





森繁久彌は1953年に自身で初の年間主演を5を初めて記録していますが、1954年は2作のみでした。2年連続主演5以上は1955年からスタートしました。ですが、すべてが東宝ということがない部分は特徴的でした。

1955年は新東宝4、東京映画を含む監督・豊田四郎の「夫婦善哉」などで東宝が3、監督・マキノ雅弘の「人生とんぼ返り」などの日活2で主演数が9、1956年は東京映画宝塚映画を含む東宝が7、新東宝1、日活1、松竹1で主演数が自身初の年間10に到達、1956年の監督・千葉泰樹の「へそくり社長」から最大の代表作シリーズの社長シリーズがスタートしています。

1957は1作のみの松竹主演作がありますが、1958年からは東宝のみの主演が1960年まで続いていきます。喜劇俳優として活躍した伴淳三郎とのダブル主演「伴淳・森繁のおったまげ村物語」という映画で松竹主演作に久々の主演を果たしています。全般的には東宝やその関連の東京映画宝塚映画が制作した東宝の配給作、事実上の東宝作品でした。

森繁久彌の12年連続の主演5作は東宝中心、全般的には東宝で到達した 12年連続の年間主演数5以上だったといっても過言はないレベルです。12年連続の主演5作の全体の主演映画数の99作中、86作が事実上の東宝でした。


映画チラシ 「小説吉田学校」監督・森谷司郎 出演・森繁久彌/芦田伸介
1982年公開の東宝の配給による『小説吉田学校』は森繁久彌の晩年の代表作の一つ、『夢一族 ザ・らいばる』に次ぐ主演作であり、吉田茂を演じました。監督の森谷司郎は生涯で20作強、日本の映画監督としては少数ですが、1973年『日本沈没』や1977年『八甲田山』などの大型作品をいくつか手がけました。




森繁久彌の12年連続主演5以上の期間中の主演映画の制作会社の内訳




<森繁久彌の12年連続主演5以上の期間中の主演映画の制作会社の内訳>

1955 日活3、新東宝4、東宝1、東京映画1=9
1956 東宝3、新東宝1、日活1、東京映画3、松竹大船1、宝塚映画1=10
1957 東京映画3、松竹京都1、宝塚映画1=5
1958 東宝2、東京映画4、宝塚映画3、東映動画1(東映)=10
1959 東宝3、東京映画2、宝塚映画1=6

1960 東京映画2、東宝6(=内1つに共同で森繁プロ)=8
1961 東京映画4 宝塚映画2、東宝3、松竹大船1=10、
1962 東宝4、関西喜劇人協会と松竹京都1、東京映画3、宝塚映画1=9
1963 東宝4、東京映画5=9
1964 東宝4、東京映画4、宝塚映画1=9
10
1965 東宝2、東京映画5=7
1966 東宝2、東京映画5=7

12年連続主演5以上の期間中の主演映画=全体で99作



東宝が自社のナンバーワン俳優の森繁久彌に何を求めていたのでしょうか。それはそのときだけではない、後の評価だったのではないでしょうか。評価されるためには多様性が求められます。



東宝や関連するテレビ、新聞などのマスメディアが隠し続ける東宝の闇の過去




森繁久彌の12年連続主演5以上の期間中の主演映画の制作会社の内訳・主演数の現実





<森繁久彌の12年連続主演5以上の期間中の主演映画の制作会社の内訳・主演数の多い順>

・東京映画40
・東宝36
・宝塚映画10
・新東宝5
・日活4
・松竹大船2
・関西喜劇人協会と松竹京都1
・東映動画1(現・東映アニメーション)



何も知らない人が見ると森繁久彌が99作の主演作で8社に出演したように思えます、がしかし・・・


     ↓   ↓    ↓    ↓    ↓




<森繁久彌の12年連続主演5以上の期間中の主演映画の制作会社の内訳・主演数の多い順>

・東宝36、東京映画40、宝塚映画10(=配給はすべて東宝、東宝系列は86)
・新東宝5
・日活4、
・松竹大船2、関西喜劇人協会と松竹京都1(=松竹3)
・東映動画1(=東映1)



現実は(=○○)の部分がこれが隠されていました。8から5大きな減少です。
事実上は5社といえば5社です。



ある程度の多様性レベルで文化勲章を貰えるフランス、欧米の首をかしげる実態





数多くの会社に出ていることや多様性が存在知ることが評価という概念が欧米には日本上に存在しています。わたくしこと映画愛子も海外の女優などの映画やその記録を見たりすると驚くことがあります。とあるフランスの存命のベテラン女優さんなのですが、いわゆる戦後のフランス映画黄金期にヒロイン女優があった人物です。ですが、大きな代表作や多くの代表作がほとんどない。なのにフランス本国から勲章を貰っているのです。フランスといえば北野武のことについても個人的には大疑問なわけですが、北野武のような映画を手がけた監督は日本の歴代に数多くいるからですが、その部分は複雑なので今回は避けておきましょう。

ベテラン女優さんは日本で言うと文化勲章に近いかもしれませんが、勲章を貰っています。最初は大きな理由がわかりませんでしたが、その理由を探っていると多くのスター俳優と共演している事実がわかりました。

フランスを代表する国民的スターのアラン・ドロン(Alain Delon)とジャン・ポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo)、顔芸の達人であり、フランスの国民的喜劇スターのルイ・ド・フュネス(Louis de Funès)など20名強のスターと30作以上で共演していました。巨匠や名監督の作品にはほとんど出演ていなくとも、こうした数多くのスター共演との履歴で高く評価されているようなのです。日本ではこれ以上の人物が歴代には多くいるため、それほどたいしたことではないと無視されがちですが、特に欧州なら日本以上に何でもアリです。


【映画パンフ】太陽のサレーヌ ジョルジュ・ロートネル ミレーユ・ダルク

映画に詳しい人ならこの写真だけでも誰だか判ると思いますが、名前はあえて伏せておきます。彼女は19作の長編映画の主演作があります。1960年代の前半から1970年代の後半に掛けてもっとも活躍し、長編映画以外にはテレビムービーが6作、ショートムービーが2作がありますが、また、主演とは別にヒロイン作は10作ほどです。主演と合わせてヒロイン以上は30作ほどになりますが、ヒロイン以上や代表作も少なくフランス国内の歴代上位とはいえません。




まさかの関わり フランスのベテラン女優と森繁久彌


上記のフランスのベテラン女優さんは多くのスター俳優と共演しましたが、多くの多様性から評価につながる機会が増えるため、東宝が系列も含めたいくつかの会社へ自社ナンバーワン俳優の森繁久彌の主演映画を制作させた部分もあったのではないでしょうか。まさに知恵袋と言えるかもしれません。


数分後にリンク予定⇒森繁久彌 東宝の多角経営の過大評価とゴジラ映画のパクリ疑惑
森繁久彌や東宝の多角経営の過大評価やゴジラ映画のパクリ疑惑って・・・何なの



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2017/05/23 00:01 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

6番手11人目が大川橋蔵のワケ 最大のライバルと勝負の行方





前回は「戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数が途絶えた順番」を取り上げましたが、あえて外していたのですが、もう1人記録に到達した俳優がいます。



戦後を代表する日本の映画スター&東映を代表する時代劇スター大川橋蔵




それが大川橋蔵です。大川橋蔵は戦後を代表する日本の映画スター&東映を代表する時代劇スターの1人として活躍しました。1955年にデビューして、1955年から1967年まで13年連続主演1作以上を記録しました。13年間で110作強の映画に出演、9作が作られた『若さま侍捕物帖シリーズ』や『新吾十番勝負』や『新吾二十番勝負』、『新吾番外勝負』を含む9作の通称”新吾ものシリーズ”、『喧嘩道中』からはじまる股旅4作の『草間の半次郎シリーズ』、1時間弱の中篇映画『江戸三国志』3部作などを主に残しました。


1960年東映作品しおり 新吾十番勝負 完結篇 B5サイズ・2つ折りタイプ 大川橋蔵 大友柳太郎 月形龍之介 丘さとみ 映画パンフレット・兼用
『新吾十番勝負 完結篇』は新吾十番勝負シリーズ、新吾もの、新吾勝負もの事実上の4、または5作目に該当します。

その理由などは裏側に⇒裏側「6番手11人目が大川橋蔵のワケ 最大のライバルと勝負の行方」




単発映画の代表作では中村錦之助とダブル主演の『曽我兄弟 富士の夜襲』、『幽霊島の掟』、『幕末残酷物語』、テレビドラマの代表作の映画版『銭形平次(1967)』などの代表作がある大スターでした。映画主演の代表作は30作を越していおり、助演でも浅野内匠頭を演じた『赤穂浪士(1961)』など多くの大ヒット作や名作に出演し、大きく貢献しました。トータルの主演映画数は三船敏郎や渥美清らを上回る戦後20位の80作に到達しました。

1967年の『銭形平次(1967)』を最後に事実上の映画俳優を廃業し、テレビ時代劇の俳優として888話の銭形平次や数本の長篇時代劇のみが活動の場となりました。



曾我兄弟 (新・講談社の絵本)
曾我兄弟(または曽我兄弟の表記)は”曾我兄弟の仇討ち”としても知られる日本三大仇討ちに称される一つ、戦前から戦後に掛けて10度以上映像化されてきた曾我兄弟題材作、その東映版の大ヒット作『曽我兄弟 富士の夜襲』は大川橋蔵も出演していました。




大川橋蔵は6番手で11人目の俳優





大川橋蔵も「戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優」の1人でした。表記は11人目ですが、途切れた順は6番目になります。下記が大川橋蔵を追加した戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数が途絶えた順番です。


<戦後の10年連続以上の年間主演5作以上を記録した俳優で連続年数が途絶えた順番>
途絶えた年 俳優名  連続年数  連続年数の内訳

1961    長谷川一夫    12    1950~1961
1962    市川右太衛門   11    1952~1962  
1963    中村錦之助    10    1954~1963
1963    美空ひばり    13    1951~1963
1963    片岡千恵蔵    14    1950~1963
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1965   大川橋蔵      10    1956~1965
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1966    森繁久彌      12    1955~1966 
1967    市川雷蔵     13    1955~1967
1968    勝新太郎      14    1955~1968
1970    小林旭       13    1958~1970
1972    鶴田浩二      12    1961~1972





意外なことに映画時代の大きなライバルであった中村錦之助と「戦後の10年連続以上の年間主演5作」で並んでおり、中村錦之助はデビューした1954から1963年で途絶えていますが、大川橋蔵はデビューは1955年の12月に『笛吹若武者』でデビューしてから、2年目の1956から1965年にかけての10年間であり、両者とも10年間の記録ですが、記録した年数が2年間ずれています。中村錦之助が1963年で主演5作が途絶えたことにも触れておきましょう。

テレビの普及で自宅で時代劇が観れるようになったことから、本数のニーズが低下したことも大きな部分ですが、内田吐夢とコンビを組んだ5部作の宮本武蔵も要因といえるでしょう。時間をかけて製作した作品であり、主演数が自然と減少しました。一方、ライバルだった大川橋蔵はそれに反して本数を撮る方向で活動したのが、この1964年と1965年だったということになります。大川橋蔵の10年連続主演5作以上が1965年まで続いた部分には個々の活動の違いも影響していました。



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2005年に商品化されていたことに驚きましたが、大川橋蔵のデビュー作『笛吹若武者』は、ナンバーワン女優の美空ひばりといきなりの共演&ダブル主演でした。東映側から大川橋蔵への期待が高かったことがわかります。監督は大川橋蔵と映画時代の代表作の数本やテレビ時代劇『銭形平次』においても縁のあった巨匠・佐々木康でした。




大川橋蔵と最大の好敵手の中村錦之助と数と質、巨匠たちの勝負





中村錦之助の「戦後の10年連続以上の年間主演5作」が途絶えた1963年のその翌年1964、1965年も大川橋蔵は年間主演数5を維持していました。このときの二人を比べると二人の活動に変化が見られます。それが質と数です。大川橋蔵はこれまでどおり数の方向へ向かいましたが、中村錦之助は数よりも質の方向へシフトしたことが伺い知れます。



・大川橋蔵の1964年8作、1965年の5作 
・中村錦之助の1964年3作、1965年の4作


<大川橋蔵の1964年と1965年>
1964年は新吾もの8作目や番外編に該当する『新吾番外勝負』、話題作『幕末残酷物語』が公開、『新吾番外勝負』は東映や日本映画の7年連続8億人に大きく貢献した大ヒットメーカーの巨匠・松田定次の東映時代で最後の代表作といえる作品でした。1965年は5作の主演がありましたが大きな代表作なかったと言わざる得ないところですが、、『大勝負』は日活で活躍した井上梅次を監督に招いて製作され、大川橋蔵、大友柳太朗と片岡千恵蔵の3大スターを軸に描いた野心作でした。

<中村錦之助の1964年と1965年>
1964年は4作目『宮本武蔵 一乗寺の決斗』、 田坂具隆の歴史文芸『鮫』、 巨匠・今井正の数少ない時代劇映画『仇討』、
1965年は山本周五郎の文芸時代劇の田坂具隆で映像化した『冷飯とおさんとちゃん』、完結編の5作目『宮本武蔵 巌流島の決斗』などの代表作がありました。


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前年1963年の今井正×中村錦之助コンビの『武士道残酷物語』の大ヒット作との関連も指摘される、加藤泰×大川橋蔵の1964年『幕末残酷物語』も話題になりました。幕末の残酷さを問いかける内容、個人的には現代的な抗争劇などの要素を詰め込んでおり前衛さがあまり評価できない部分の時代劇映画でしたが、時代劇の概念に横槍の一石を投じる風潮は観る人によっては評価されています。




両雄の勝負の行方 名匠の文芸時代劇の代表作




1964、1965年の大川橋蔵主演作が13作、中村錦之助は主演が7作と6作も主演数に差がありましたが、代表作の数では主演が少ない中村錦之助が上回っていました。個人的には両者とも評価しているわけですが、中村錦之助は全般的には娯楽時代劇の代表作がほとんどを占めていますが、戦前から日活や大スター・入江たか子などと縁があった監督の田坂具隆とのコンビで、文芸時代劇の代表作が2作生み出せたところも大きな実積でした。



大川橋蔵は1967年に事実上に映画界を引退し、自分の意思でテレビドラマのみの活動に専念したため、中村錦之助が到達した映画主演数は100作の大記録は叶いませんでしたが、戦後の時代劇映画の発展や多様性に大きく貢献した俳優の1人でした。



姉妹サイトで映画話も登場⇒伝説のテレビドラマ『琴姫七変化』で活躍した男女の真相

今回の裏話へ⇒裏側「6番手11人目が大川橋蔵のワケ 最大のライバルと勝負の行方」

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2017/05/10 00:00 | 超大物俳優COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

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