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安室奈美恵 SPEED DA PUMPが存在がなかった 日本初映画大巨匠の死と大量退社騒動直後の名作








映画400作以上に出演した日本映画の大名優・沢村国太郎についてさらに取り上げることにします。

そこには安室奈美恵 SPEED DA PUMPなどの平成に活躍や活動した多くの歌手や俳優、タレントなどの芸能人たちの存在も見え隠れしています。もちろん昔から知っているわけですが、これも何かの縁、その部分に関しても独自なに迫ります。「安室奈美恵 SPEED DA PUMPが存在がなかった 日本初映画大巨匠の死と大量退社騒動直後の名作」開城です。



前回記事⇒月形龍之介の助演代表作と「雄呂血」名匠 知られざる多数代表作から不思議な悲運




さらに詳細な沢村国太郎の主な主演代表作





この記事から4記事前の10月16日更新通産映画1200作の三大名優の月形龍之介と沢村国太郎と光岡龍三郎ではかなり搾って沢村国太郎の代表的な作品群を取り上げましたが、今回はさらに広げることになります。




沢村国太郎の主な主演代表作=『浪人街 第三話 憑かれた人々』(1929)、『怪談累ケ淵』(1930)、『中山七里(1930)』、『里見八剣伝』(1930)、『紅蝙蝠(1931)』、『大岡政談 十三夜見物侍』(1932)、『七人の花嫁』(銭形平次、1932)、『旅の馬鹿安』(1936)、『弥太郎笠 前後篇』(1936)、『江戸の花和尚(1936)』、『刀を抜いて(1936)』、『怪談牡丹燈籠(1937)』、『旅の風来坊(1938)』、『隠密七生記 前後篇』(1938)、(全て時代劇映画)


映画出演400作以上、主演映画が80作もある俳優、代表的な主演映画だけでも多数ありますが、この中でもまず下記で一つ取り上げてみましょう。全て時代劇映画ですが、評論家路線の前衛もの、娯楽や大衆路線の怪談物、股旅物、いわゆる大岡物、捕物など多彩です。






沢村国太郎とキネマ旬報ベストテン1位と第3位を記録した名作








浪人街 第三話 憑かれた人々』:は沢村国太郎にとって非常に重要で意味がある初期の映画主演の代表作だといえます。浪人街はマキノ正博(のちのマキノ雅弘)が監督し、1 作目が『浪人街 第一話 美しき獲物』:が1928年のキネマ旬報ベストテン1位に評価され、残念ながら2作目はランクインしませんでしたが、、3作目の『浪人街 第三話 憑かれた人々』が1929年のキネマ旬報ベストテン3位にランクインするなど、当時の映画評論家や関係者に高い評価を受けた有名な映画シリーズです。


最初の浪人街の映画は1928~1929年の映画化は事実上の3部作ですが、3作目は前後作といえる1、2作目の流れを受けた形ですが、大きな関連は浪人や浪人街という要素を引き継がせ、登場人物を大幅に変更された映画でした。



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残念ながら沢村国太郎の主演した『浪人街 第三話 憑かれた人々』:は現時点では作品が現存していません。戦争中の空襲や当時の燃えやすいネガのための消失などがその理由です。なのでもちろん商品化もされていません。

ですが、戦前の名作の浪人街や浪人物の流れを組む、1957『浪人街(1957)』(製作=京都映画 配給=松竹)は商品化されています。剣戟スターや剣豪俳優とも言われた時代劇スター近衛十四郎の松竹時代の数少ない主演の代表作といっていいでしょう。彼の個性的で上手な殺陣(上手いう概念も人それぞれ)も堪能できますし、

生涯でも数少ない大巨匠のマキノ雅弘とのコンビです。脚色は時代小説で活躍した村上元三とマキノ雅弘の共同担当、原作者の戦前の名脚本家の山上伊太郎の意思を反映させていますし、価値がある1本です。






日本映画の父 1928年の日本の映画界を代表するエピソードと日本映画最大の黄金期







この映画『浪人街 第三話 憑かれた人々』の公開時の1929年は大手映画会社のマキノプロダクション(マキノ映画)を支えてきた新人スターの片岡千恵蔵や嵐寛寿郎(のちの日本を代表する映画の歴代大スター)はもういません。


この映画の前年1928年に牧野省三の病状悪化や求心力の低下などをきっかけに将来有望な主演俳優、脇役俳優や製作者たちの大勢によるマキノプロダクションの大量退社騒動が起こり、このときに愛称だと千恵蔵(チエゾウ)や嵐寛(アラカン)もマキノを飛び出し、大勢の退社騒動はこの年、1928年の日本映画界を代表するお家騒動やトラブルのエピソードだったといえるでしょう。映画界の年表に刻まれる1ページです。この翌年の牧野省三は1929年に亡くなっており、こちらも1929年の日本映画界でもっとも重要な出来事になりました。


この騒動があっても前回記事登場の名匠・二川文太郎のようにマキノに残り、低迷期に突入する人物もいましたし、1931年の会社崩壊までマキノ正博(にちのマキノ雅弘)のようにそこそこの結果を残す人物もいましたし、退社を好機に変えてさらに大飛躍する片岡千恵蔵や嵐寛寿郎などの俳優もいて、天国と地獄、その中間など合間見えて分かれグチャグチャになりました。




牧野省三(他にマキノ省三などの名義)=現在も残る日本最古の元大手映画会社の日活映画を共同創立し、マキノプロダクション(事実上のマキノ映画1)、牧野教育映画製作所(事実上のマキノ映画2)などを創立、日本を代表する数多くの巨匠、名匠や大映画スター、大物製作者たちを合わせて100名以上も発掘し、日本映画の基礎に尽力、尾上松之助とのコンビで日本映画初の黄金コンビを形成、最終的に映画史上世界最多の総数220作以上の名コンビ、100を越す映画題材に着手や開拓、のちの時代劇映画につながる剣戟映画の形成と牽引、忠臣蔵、水戸黄門、忍術映画などの多ジャンルを幅広くヒットさせ、監督数は世界最多の450作を越す。


監督数はデータが存在しないものを含むと500作は越していると考えられていますし、沢村国太郎とも関わりが存在、沢村国太郎は牧野省三の娘のマキノ輝子と結婚し、長門裕之、津川雅彦の兄弟2名優を誕生させており、沢村国太郎は牧野省三と直接な面識はなかったわけですが、完全に世話になった大影響を受けた映画人です。


牧野省三はその膨大な数の功績から”日本映画の父”と称され、事実上の”日本映像芸能の父”です。戦後の日本映画の最大の黄金期は彼の存在が無くては語れません。何故なら彼の元を巣立ち、7年連続の東映の映画会社1位を形成した片岡千恵蔵や玉木潤一郎、月形龍之介、市川右太衛門、マキノ光雄、松田定次など、さらにその後輩たち、彼が作った映画会社の日本最古の映画会社・日活の石原裕次郎などの多くの映画人たちが最大の黄金期を形成したからです。






日本初の映画大巨匠は安室奈美恵SPEED、DA PUMPの形成にも関与






マキノ 正幸をご存知でしょうか。平成最後の芸能界の大物の引退といっていいでしょうが、安室奈美恵も牧野省三の恩恵を受けている一人です。

沖縄と歌姫 ~安室奈美恵を発掘した男の壮絶人生
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沖縄で芸能養成スクールの沖縄アフターズスクールを創立したマキノ 正幸はマキノ雅弘の息子で牧野省三の孫であり、ここを巣立って活躍した安室奈美恵も牧野省三がいなければ確実に今の実積では存在していませんでした。他にも多くの芸能系の若者を輩出しています。



<芸能養成スクールの主な輩出者 全国オーディション合格者も含む>
・歌手=安室奈美恵、SPEED、2018年のNHK紅白歌合戦出場が決定しているDA PUMP、MAX、kiroroの玉城千春、三浦大知、アニソン歌手のLiSA
・タレントや俳優、一時的に歌手など=早坂好恵、知念里奈、黒木メイサ、山田親太朗、木下優樹菜




牧野省三やマキノ雅弘の存在は、子どもやその関係者たちだけではなく、尾上松之助と初めてコンビを形成した1909年から日本の芸能界に100年以上にわたって貢献が続いており、2019年で110年ですが、その孫のマキノ 正幸やその関係者たちにも大きな影響を与え続けているのです。これはテレビやマスコミがきちんと取り上げることがない驚くべき現実です。





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2018/11/28 22:11 | 邦画の探求COMMENT(5)TRACKBACK(0)  

月形龍之介の助演代表作と「雄呂血」名匠 知られざる多数代表作から不思議な悲運






凄さというものは比較対象が存在してこそ、明確になる部分があります。この2大名優は互いに長年活躍しましたが、比較をされないとその凄さは良く分かりません。本来は鮮明なものも不透明なままです。

この記事でいえば月形龍之介の凄さも沢村国太郎が存在しないことには不透明な部分も多くあります。映画500作以上、主演100作以上、助演400作以上の3つの映画歴代大記録もかすんでしまいます。月形龍之介と比べてしまうと沢村国太郎のほうが数字的に劣る部分がほとんどですが、彼の存在も大きなものです。

劣る部分を散り上げることはけして悪いことではありません。たとえ月形龍之介よりも沢村国太郎が劣っていたとしても彼も大名優であることに変わりはありませんし、劣る部分を取り上げないと互いの良い部分も明確になりませんし、正当な評価もできません。「月形龍之介の助演代表作と「雄呂血」名匠 知られざる多数代表作から不思議な悲運」スタートです。



前回の記事⇒歴代大名優形成と戦慄激戦の日々 月形龍之介VS沢村国太郎編







月形龍之介の映画主演1924年から1962年の38年間は当時の大レジェンド






前回の続きです。沢村国太郎は1929年から1941年までの12年で主演映画が作られていますが、月形龍之介は1924年から1962年までの38年間で主演映画が作られ、戦前と戦後の大まかに分けると主演のピークが2度ありました。月形龍之介の戦後は助演上位で多数の名作で大活躍しながら、23作ほどの小規模の主演作数でしたが、東映の「水戸黄門漫遊記シリーズ」の水戸光圀(水戸黄門)の14作の主演で再&大ブレイクを果たしました。


これは東映の大プロデューサーの玉木潤一郎が多く製作(当時は企画の表記)を務め、通産で数千万人の爆発的な観客動員を記録、1969年から東野英治郎を主演にスタートを果たすことになる国民的テレビ時代劇「水戸黄門」の基礎製作の流れに大きな影響を与えていますし、水戸黄門などの水戸光圀役は映画歴代の多くの有名俳優が演じ、日本映画の歴代有名題材の中でも上位の高い競争力がありましたが、月形龍之介の水戸黄門映画は通産100以上の中でもっとも多くの観客動員を記録しました。これはその後も映像化も含めて大きな功績です。



映画主演歴
月形龍之介は1924年から1962年までのおおよそ38年間
沢村国太郎は1929年から1941年までのおおよそ12年間



月形龍之介の戦前から戦後の当時の映画主演俳優の専属時代(現在は事務所所属の事実上の映画俳優の基本はフリー時代)としては、主演映画記録期間の38年間は大レジェンド級であり、沢村国太郎の主演俳優の専属契約は戦前の10年ほど、10年ほど主演で活躍するだけでも当時は十分に中規模レベル、助演俳優歴代上位を含まないとしても主演俳優のみでも相当な実積といえます。









月形龍之介の助演代表作と「雄呂血」の名匠とその知られざる多数代表作と不思議な悲運






下記の画像の「江戸怪賊伝 影法師」の前篇後編 (1925)は個人的にも録画している月形龍之介のサイレント時代の助演代表作の一つです。商品化はVHSのみのようですが、阪東妻三郎が主演、サイレント時代劇映画の名匠の二川文太郎が監督。


「江戸怪賊伝 影法師」の月形龍之介は、出演の阪東妻三郎高木新平中根龍太郎の当時の大手映画会社のマキノプロダクションの三スター俳優、のちの沢村国太郎の妻で長門裕之や津川雅彦の実の母親の牧野輝子(トータルはマキノ輝子の名義が基本、マキノ智子の別名義もある)、阪東妻三郎の長年の友人であり、盟友として知られる名優の中村吉松に次ぐ、6番手表記で出演しています。上位キャストだけでも実に豪華です。



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二川文太郎(ふたがわぶんたろう)は通算90作近い大多数の映画を手掛け、阪東妻三郎の「雄呂血」(1925)のほかにも、日本初期の事実上のアクションスター(鳥人)ともいわれた映画スターの高木新平の初期代表作「快傑鷹(1924)」や「江戸怪賊伝 影法師」の前篇後編 (1925)、『江戸怪賊伝 影法師』(製品版、上記画像)、

この後も何度も映画化される三題材の月形龍之介の「修羅八荒」の第一篇~第三篇(1926)、時代劇映画スターとして大活躍した中根龍太郎の「照る日くもる日」の第一篇と第二篇(1926)、市川右太衛門の「影法師捕物帳」の前篇と後編(1926~1927)、

また、月形龍之介の初期の単発代表作「悪魔の星の下に」(1927)などの主な代表作を残しました。さらに中根龍太郎の「刀を抜いて(1929)」、名匠6名が監督した異色作にして2時間半を越したと考えられる大作、マキノ雅弘の初期代表作に貢献した映画スター南光明の「荒木又右衛門」の全五篇(1929)などの多数の主な映画代表作を残し、マキノプロダクション(マキノ、マキノ映画などの略称)の全盛期を中心に活躍しました。


二川文太郎はその後の1931年から松竹映画中心に監督を続けましたが、大きな代表作にほぼ恵まれない不思議な悲運が襲い、第二次世界大戦を迎え、1939年を最後に一時的に監督業を廃業、

戦後の1955年に当時の映画監督としてはほぼ最長の15年以上の大ブランクを経て、宝塚映画(東宝の関連会社)で『復讐浄瑠璃坂 第一部 鬼伏峠の襲撃』と『復讐浄瑠璃坂 第二部 暁の血戦』の2作のみで監督を再起しますがこれを最後に引退しています。

二川文太郎はほとんどの代表作がマキノプロダクション時代の1920年代であり、この頃が彼の映画監督としてのピークだったといえるでしょうし、彼の全盛期の活躍には大名優の月形龍之介の主演や助演の活躍が大きく影響していました。





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