ありえない数百本”空白の10年間” 紀元前映画28年ぶり再映画 師走空にマキノ&正二郎&藤山&ひばり舞うとき
ありえない数百本”空白の10年間” 紀元前映画28年ぶり再映画 師走空にマキノ&正二郎&藤山&ひばり舞うとき
前回記事の最後に紹介しているポスター、実はありません。ページに存在していません。『日本誕生』は日本映画社団法人に存在せず、ですが、『日輪(1953)』はポスターが存在しています。これは不思議です。『日輪(1953)』という映画は非常に重要だということを物語る一つの要因になると考えられます。
日輪(1953)のポスターがあるページ
日輪のポスターがあるページ
日本誕生のポスターがあるはずのページ
日本誕生のポスターがあるはずのページ
前回記事 紀元前時代劇超大作『日輪(1953)』と『日本誕生』の6つの共通点は”ほんとうは7つ”だった
日輪は廻る 紀元前映画の28年ぶりの映画化
横光利一原作の日輪は2度映画化されています。前回記事の1953年に公開された東映映画の『日輪(1953)』と1925年(大正14年)のマキノプロダクション(マキノ映画)の『『日輪(1925)』』です。実に約28年ぶり、四半世紀強ぶりの再映画化でした。
実はこの2作には大きな共通点が存在しています。それはマキノです。世界最大の映画一家マキノ家です。
横光利一 日輪
日輪(1925)の製作者は牧野省三(表記はマキノ省三名義)、日輪(1953)の製作者はマキノ光雄(別名義は牧野満男など)です。映画に詳しい方はご存知なはずですが、テレビなどが取り上げないため、知らない方も多くいると思うので取り上げる必要があります。この両名は日本映画界を代表する親子関係です。マキノ省三は日本最初の巨匠でもあり、同時に映画の大プロデューサー(映画製作者)でした。
日輪(1925) 日輪(1953)
牧野省三 マキノ省三 マキノ光雄 牧野満男
”ありえない空白の10年間” 牧野省三の製作数表記の空白の10年間の謎
牧野省三の監督数320強、製作数の某データは110本強ですが、これは正確なデータではありません。最低でもこれを上回る数はあったと考えています。当時は監督=製作という概念が現在よりも強く、製作という表記のない映画が膨大にありました。また監督本数データが欠落しているものが膨大に存在しています。
何故、320程度ではないのか、製作本数110ほどではないのか、それは省三と愛称の目玉の松っちゃんこと、日本映最初の映画大スターの尾上松之助とのコンビが映画500本と記録が残されているため、本来ならば500本が最低ラインの映画監督数です。またコンビを組んだ尾上松之助が世界歴代1位の1000本強の映画(短編メイン最多)に出演していること大きな理由になります。。
尾上松之助
【TBSスパークル】1926年9月11日 目玉の松ちゃん(大正15年)
松ちゃんは松本人志ではありません。失礼ながらテレビに飼われていえる程度の彼とは格が違う存在、非常に貴重な映像、それがTBSという現実、これに関しては彼らを素直に評価します。当時は非常にこの映像や展開、トリックが斬新で、子供たちに大うけしました。
目玉の松ちゃん 松ちゃん
松本人志
ただデータが存在していない弱みがあります。この500本コンビからすると製作本数も膨大なことであったのは間違いがありませんが、残るデータは110強ほど、製作表記が存在しないものも多いため、確定ができないのも事実です。
さらに牧野省三の製作としての記録は公に残る1914年1月公開の『怪力伝助』から1923年12月公開の『或る日の大石』(忠臣蔵映画)の製作表記の空白の約10年間に多くの製作本数が存在したといえ、多くの記録が欠落していることが考えられます。
怪力伝助 或る日の大石
監督320以上(最低550以上)、製作110以上(300以上とも考えられる)、全部がサイレント映画とはいえ、とんでもない存在です。脚本や他にも彼の伝説は膨大に存在していますが、取り上げるとキリがないため、今回は先を急ぎます。
空白の10年間の謎
1914年は表記は1本のみ
↓ ↓
製作系の役職の表記1本もなしの”ありえない空白の10年間”
↓ ↓
1923年は表記3本のみ 製作、指揮、総指揮
1924年は最低24本 指揮や総指揮
1925年は最低18本 指揮や総指揮
1926年は最低27本 指揮や総指揮
1927年は最低20本 指揮や総指揮
1928年は最低11本 指揮や総指揮
1929年は最低9本 指揮や総指揮 この年に自身が死去 1929年7月25日没
1923年は表記が3本のみ、1915~1922はゼロ扱い、省三の日活からマキノへの異動があった時期も含まれていますが、これは現実的にありえないことに思えます。
2大プロデューサー 牧野省三とマキノ光雄の親子関係の点が結ぶ一つの紀元前映画題材
日輪(1925)、日輪(1953)、最初の映画化に迫ります。実は様々なことが見えてきます。
日輪は1925年に最初の映画化、大正十四年のマキノ映画として公開しています。
監督はのちの時代劇四大巨匠の衣笠貞之助(時代劇六大スターの林長二郎のちの長谷川一夫の育ての親、コンビでも大成功)です。助監督は当時はマキノ正唯(のちの時代劇四大巨匠のマキノ雅弘)、脚本の古間礼一は衣笠貞之助のペンネームだったのではないかと考えられ、マキノ雅弘の証言に指摘があります。
林長二郎 長谷川一夫
古間礼一、何故この名義を選んだかは不明です。
時代劇四大巨匠の2大巨匠による監督と助監督という奇跡、さらに日本映画の父の、3大巨匠が1本に集結した奇跡の映画でした。
古間礼一 マキノ正唯
*時代劇四大巨匠=伊藤大輔、稲垣浩、マキノ雅弘、衣笠貞之助
時代劇四大巨匠 伊藤大輔 稲垣浩 マキノ雅弘 衣笠貞之助
『日輪(1925)』の指揮(製作総指揮)はマキノ省三(日本映画の父、日本映画最初の巨匠の牧野省三)、撮影は日本映画初期の時代劇の名撮影者の田中十三、製作はマキノ省三による事実上の大手映画会社のマキノプロダクション(御室撮影所)と聯合映画芸術家協会(連合映画芸術家協会)、聯合映画は直木賞の小説家の直木三十五が設立した映画会社です。監督や助監督を含めて、非常に豪華な制作陣です。
田中十三 マキノプロダクション 聯合映画芸術家協会 連合映画芸術家協会
直木三十五
日輪の製作の映画会社の直木三十五と「南国太平記」 西郷を破滅させた男 益満休之助
直木三十五は映画に非常に関心があり、原作者として維新の英雄とされる幕末の薩摩藩士、益満休之助を主人公とした「南国太平記」題材(13本)や「水戸黄門」(この題材の最大のヒット含む3本)、「仇討浄瑠璃坂」などで映画界に貢献するだけではなく、
作家の自分自身が映画会社の設立者としても映画界へ貢献しました。作家が映画に原作以外で関与する新しい形の貢献、1970年代中心に大ヒットしたテレビドラマ「水戸黄門」は彼の映画の原作の流れをベースにしている部分が存在しています。
南国太平記 益満休之助 仇討浄瑠璃坂
幕末の激動と英雄譚を描く「南国太平記」としての映画は、1931年から1960年までの、有名題材が膨大にある激戦の中でありながらも、長期間にわたって約30年13本が製作されました。映画は時代劇の大スターの羅門光三郎(らもんみつさぶろう 主演中心の映画会社は、東亜キネマや極東キネマ、甲陽映画などの日活や松竹よりも大きく劣ったが、戦前から戦後直後の主演は大台の100本強を越す。
戦後は大映の脇役俳優で活躍)がもっとも演じ、映画出演は300本近くを記録の名優、益満休之助は羅門自身の最大の当り役だけではなく、この「南国太平記」題材の最大の当り役俳優です。
羅門光三郎
「南国太平記」映画の全体を視聴できるのは片岡千恵蔵版や、その直属の後輩の里見浩太郎(のちの里見浩太朗)版です。内容だとやはり千恵蔵版の方、モノクロですが映画としては上といえます。
西郷を破滅させた男 益満休之助という書籍のあります。
西郷を破滅させた男 益満休之助
連合映画芸術家協会は1925年(大正14年)3月に創設し、5月公開の1本目の沢田正二郎主演の『月形半平太』がヒットしたといわれています。事実上の国民舞台として、多くの国民に親しまれた新国劇、後輩の長期間活躍した大舞台俳優の辰巳柳太朗(助演メインだが映画でもそこそこの活躍)によって戦後まで引きつがれた大看板題材の月形半平太の映画版でした。
月形半平太 辰巳柳太朗 澤田正二郎
沢田正二郎(澤田正二郎)は日本の演劇界や芸能史にとって、非常に重要な人物で、チャンバラの形成者ともされ、上位3選の『月形半平太』、『国定忠治』、『大菩薩峠』お舞台で大きな評判となり、大衆演劇の大人気役者、劇団新国劇を創設して座長、愛称は澤正(さわしょう)と呼ばれました。
劇団新国劇 澤正
【TBSスパークル】1929年3月4日 新国劇の沢正 没(昭和4年)
沢田正二郎の死を伝える貴重動画 現在は極左化が止まらず、国民のモンスターと化した、あのTBSの数少ない良い仕事といえます。
沢田正二郎も演じた『大菩薩峠』の主人公、非業と狂乱の剣豪机龍之介
刀は音無しの構え、ドロドロの人間関係と殺戮を絡めた愛憎劇、濃厚な演出、巨匠内田吐夢と片岡千恵蔵の名コンビの名作の「大菩薩峠三部作」でも確認ができます。全然に爆発的に当たった明朗演技の千恵蔵を封印
音無しの構え 内田吐夢 片岡千恵蔵 大菩薩峠三部作
机龍之介
机龍之介を打つ向うは、肉親恨みの中村錦之助(のちの萬屋錦之介)の青年の宇津木兵馬 中村錦之助と内田監督は、この千恵蔵映画のおかげで出会い、のちの錦之助の最大の当り役「宮本武蔵5部作」(東宝含むと6作)へ繋がります。
中村錦之助 萬屋錦之介 宇津木兵馬
実戦剣術会 動画 63
いわゆる音無し剣と紹介されています。
六代目尾上菊五郎(初代中村吉右衛門と「菊吉時代」の全盛期を築いた歌舞伎の花形の名優)、初代中村吉右衛門(先日死去の二代目中村吉右衛門の実の祖父、高い人気を誇った歌舞伎俳優)、松竹社長などを務めた大人物の大谷竹二郎、文豪の菊池寛など多くのファンがいたことも知られ、日本映画の父の牧野省三も彼のファンだったと記録が残されています。
牧野省三がファンだったことから沢田正二郎の映画代表作『月形半平太』の製作と公開へ繋がり、主演俳優は別ですが、その後の製作の『日輪(1925)』へ繋がり、戦後の記念碑的千恵蔵映画『日輪(1953)』へ至ることとなります。
六代目尾上菊五郎 二代目中村吉右衛門 菊吉時代 初代中村吉右衛門
大谷竹二郎 菊池寛
新国劇沢田正二郎―舞台の面影 (昭和4年)
『殺陣師段平(1962)』~殺陣師段平(雷蔵版)
殺陣師段平 [DVD]
戦後世界ベスト5の主演数を誇る大俳優の市川雷蔵が、1962年に沢田正二郎を演じています。殺陣師段平とありますが、主演は沢田、相手役で殺陣師段平こと、市川段平役を歌舞伎と映画の二刀流名優の中村鴈治郎(2020年に死去した歌舞伎界の重鎮名優の坂田藤十郎や女優の中村玉緒の父)が演じました。
高田美和をヒロインに添え、日本の映画界の宝の田中絹代(戦後は助演メイン)も上位で出演しています。
殺陣師段平(1962)
市川雷蔵 市川段平役 歌舞伎と映画の二刀流名優 中村鴈治郎 坂田藤十郎 中村玉緒
高田美和 田中絹代
『殺陣師段平(1962)』の監督と美空ひばり 丘つながりの国民的2大歌手
『殺陣師段平(1962)』の監督の瑞穂春海は個人的にも複数の視聴経験がある監督です。彼は巨匠や名匠とは言いにくく、明確な実積の弱い、映像化監督ですが、60本を越す監督数を記録、全体は松竹と東宝系(東宝、東京映画、宝塚映画)、大映の監督で、松竹時代がもっとも活躍したと考えています。
瑞穂春海
その理由が、松竹の父親役で知られる名優、河村黎吉主演の戦中の家族映画『家に三男二女あり』(1943)や、美空ひばりの歌謡曲ベースのいわゆる歌謡映画『あの丘越えて』(1951)、同ひばりの有名曲ベースと主演の歌謡映画『ひばりの悲しき瞳』(1953)、この3本が松竹映画だからです。また、初期の鶴田浩二の松竹時代の代表的作品の一つ『飛び出した若旦那』も松竹、瑞穂春海の上位の代表的な映画は松竹が多い。そしてこの『殺陣師段平(1962)』も、彼自身範囲の上位に入る代表的な作品といえそうです。
いわゆる複数の主演俳優でリレーしたことで知られる「若旦那シリーズ」です。
河村黎吉 家に三男二女あり 美空ひばり あの丘越えて 歌謡映画
ひばりの悲しき瞳 鶴田浩二 飛び出した若旦那 若旦那シリーズ
あの丘越えて 美空ひばり【高音質 全音標 HD】
この「あの丘越えて」は比較的有名な美空ひばりの歌の一つです。
作詞:菊田一夫 作曲:万城目正
美空ひばりの「あの丘越えて」は藤山一郎の「丘を越えて」に曲名が似ています。藤山一郎は国民的歌手、戦前から戦後と多くの名曲、紳士な姿勢と独自な歌唱スタイルを貫きました。この賞は当初から、他の記録があったにしても、金メダル一つのみの柔道の山下泰裕に与えるなど、いろいろ問題がありますが、野村忠宏は国技の柔道で金3つだが無視されている。この時点で大きな問題です。
某○通や企業利益や政治が強く絡んでいるこの賞は価値がない。
藤山一郎 丘を越えて 山下泰裕 野村忠宏 菊田一夫 万城目正
藤山も国民栄誉賞も受賞。長谷川一夫だけではなく、他の5名の時代劇六大スター全員に今からでもやってほしい。それがないと価値が落ちると、今でもこのように考えています。彼らは多くの数字的にも、世界上位の俳優だからです。
国民栄誉賞
2021年の長嶋茂雄の文化勲章は反対派です、電○やテレビメディア、企業ぐるみのポリコレだからです。国民栄誉賞も同様ですが・・・残念ながら、この賞の価値自体が落ちました。
♪丘を越えて ビッグショー『藤山一郎 遙かなりわが青春の歌』より(昭和52年4月)
丘を越えて(昭和6年) 作詞:島田芳文 作曲:古賀政男 唄:藤山一郎
ビッグショーという名番組は過去のNHKの良好な仕事の一つ、左に偏る現在のていたらくを正して欲しい
古賀政男 NHKのビッグショー 島田芳文
『殺陣師段平(1962)』は映画としては市川右太衛門版のリメイク
そして『殺陣師段平(1962)』は映画としては市川右太衛門版のリメイクです。
『殺陣師段平(1950)』~殺陣師段平(右太衛門版)
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こちらは1952年に時代劇六大スターや七剣聖の市川右太衛門が沢田正二郎を演じています。相手役で殺陣師段平こと、市川段平役は主演と助演で大成功し、七剣聖の一人、映画500本俳優の大名優の月形龍之介が演じました。
*七剣聖は時代劇六大スター+月形龍之介、ちなみに過去にNHKも番組で七剣聖を取り上げています。
『殺陣師段平(1950)』と『殺陣師段平(1962)』共に、脚本は黒澤明で、見比べる良さもあります。1962年版は主に1950年と同じ脚本を使用しているということになり、新たに書きおろしてはいせん。
七剣聖 月形龍之介 殺陣師段平(1950) 黒澤明 脚本のみの黒澤明
2021年の最後に 独自に貫き強くあれ日本映画
2021の最後の記事で、紀元前映画の流れから、七剣聖、時代劇四大巨匠、新国劇や沢田正二郎、国民的2大歌手、そして牧野省三、日本映画や日本の芸能の大切な価値、その尊さと清い魂の一端へ迫ることができたように思えます。
日本の現状は、たかが外国の真似や外国かぶれの成り下り、経済と文化の低迷状態は非常に情けなく、独自な映画と芸能を、日本は再び個性と強さを取り戻していただきたい。これさえも知らない日本人が急増していることも大きな問題です。
日本を弱体化させるマスメディア系の特定の企業や芸人、タレント、一部の俳優系など、グローバリストたちは大危険、人権弾圧という国による狂悪だけではなく、台湾や日本侵略の協力金を出すことになるため、中国の北京五輪の開催そのものを大反対、
日本は外国を最低限に抑えて、国民のための独自な飛躍を願う、2022年もマスコミのような偽善者ではない独自性を発信して参ります。
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2021/12/15 20:23 | 邦画の探求 | COMMENT(3) | TRACKBACK(0)